北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第1節 建武新政と鎌倉府の成立

中先代の乱と鎌倉府の成立
建武年間(一三三四~三六)に入ると武士らの間に建武政府への失望と不満が広がり、諸国であいついで反乱が起きた。その最大のものが「中先代(なかせんだい)の乱」である。
建武二年七月、北条高時の子時行(ときゆき)が、信濃国で挙兵した。時行軍はたちまち武蔵に進出し、女影原(おなかげはら)(日高市)などで小山氏や渋川氏を破り、同月二十五日には鎌倉に入った。京都の尊氏はただちに出発し、駿河や相模などで時行軍を破り、八月十九日には鎌倉を回復した(「国立国会図書館所蔵文書」)。ついで尊氏は功績のあった武士に恩賞を与え、後醍醐天皇の帰京命令を無視するなど反天皇を内外に示したため、天皇の追討をうけることになった(『梅松論(ばいしょうろん)』)。
同年十二月、新田義貞らの討伐軍を破った尊氏は、義貞らを討つべく上洛し、翌三年正月には京都を占領したが、反撃をうけ九州方面に逃れた。三月筑前多々良浜(たたらはま)(福岡市)の合戦で菊池武敏(きくちたけとし)軍を破った尊氏は上洛を開始し、途中義貞軍を追討し六月十四日再度入京した。十月には講和が成立し天皇は帰京したが、十二月十一日、天皇は大和国吉野に逃亡した(南北朝時代の開始)。
一方尊氏上洛後の鎌倉は、幼少の千寿王を中心に、それを上杉憲藤(のりふじ)らが補佐するという政治体制であった。その後斯波家長(しばいえなが)が関東曾領(かんとうかんれい)に就任し、関東以北(実質は駿河も含まれていた)に関する政務を執り行った。いわゆる「鎌倉府(かまくらふ)」の成立である。しかし家長はまもなく戦死し、かわって関東管領に就いた上杉憲顕(のりあき)と高師冬(こうのもろふゆ)の代になって、管籍領域はーーか国に限定されることになった。
表13 関東管領補任表(その1)
氏名  官途名 在職期間 
斯波 家長  陸奥守 建武3. 6〜建武4.12.23 (死亡)  
上杉 憲顋 民部大輔 暦応1.6〜暦応1.12   
高 師冬三河守 〃 2. 6〜康永3.閏2  
上杉 憲顕 民部大輔 〃 3. 6〜観応2.12  
髙 重茂 駿河守 康永3. 6〜貞和5.12 
高 師冬播磨守 観応1.1〜観応2.1.17 (死亡)  
未 補 任文和1.1〜文和2.6 
畠山 国清  阿波守 〃 2. 7〜康安1.11 
高 師有陸奥守 貞治1.4〜貞治2.2 
上杉 憲顕 民部大輔入道 〃 2. 3  〃  2.12
上杉 某 左近将監 〃 3.10  〃  3.12 
未 補 任〃 4.1  〃  6.4  

注 関東管領が二人いた時期(△印)がある。


吉野に逃れた後醍醐天皇は、自派勢力の再建にのりだし、北畠親房(きたばたけちかふさ)らを関東に派遣した。常陸国小田(おだ)城(茨城県つくば市)に入った親房が反足利活動を開始した結果、関東各地では南朝方武士らの活動が活発となった。暦応四年(一三四一)七月には、高師冬に従っていた「
しかし幕府の本格的な反撃が展開されるにおよび、南朝方が除々に劣勢となり、ついに康永三年(一三四四)十一月親房の拠城が落ち親房が吉野に逃れたため、関東での南朝方の活動は一段落することになった。

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