北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第2節 関東公方と関東管領

関東公方と関東管領の対立

図13 足利氏略系図

足利氏満の跡をついだ満兼(みつかね)は、基氏時代に管轄下となった陸奥(むつ)・出羽(でわ)両国の支配強化のため、弟の満直(みつなお)と満貞(みつさだ)を派遣した。しかしこれは両国の武士らの反発をかい、応永九年(一四〇二)には伊達(だて)氏の乱が起こった。満兼は上杉禅(ぜんしゅう)を派遣しこれを降服させたが、両国内の武士らに不信と不満とを残す結果となった。
また山内(やまのうち)上杉氏の勢力強化を恐れた氏満は、犬懸(いぬかけ)上杉氏を登用していたが、満兼も同様の政策を踏襲(とうしゅう)しており、さらに一方では関東府の機構改革を行い、奉行人を直接支配下に置くなど、関東管領権力を弱める政策をとった。従って満兼と山内上杉氏、犬懸上杉氏と山内上杉氏との対立が深まっていった。
応永十六年(一四〇九)満兼の子の持氏が関東公方に就任し、政治は関東管領上杉禅秀のもとで行われた。
同二十年四月には伊達持宗の乱、六月には甲斐凶徒の蜂起(ほうき)など、関東府管内での反乱があいついで発生したが、この際に禅秀の動きが見られないことから、このころにはすでに持氏・山内上杉氏と禅秀との間に政治的対立関係が生じていたのであろう。
応永二十二年(一四一五)四月、持氏は禅秀の家人越畑(おばた)六郎の所領を没収した。禅秀は抗議の意味も込めて管領を辞職したが、後任に山内上杉憲基が就任したため両者の対立は決定的なものとなった。翌年十月禅秀は姻戚(いんせき)関係のある武士を中心に挙兵、不意をつかれた持氏らは鎌倉を脱出した。松山(吉見町)城主の上田上野介はこの時、戦死している(古代・中世No一五三)。駿河にて幕府軍と合流した持氏は、同二十四年正月十日鎌倉雪ノ下合戦で禅秀を敗死させた(「豊島宮城文書」・『鎌倉大草紙』)。


表15 関東管領補任表(その2)
氏 名 官途名 在職期間 
上杉憲顕(山) 民部大輔入道 応安1.3 〜応安1.9.19 (死亡) 
〃 能憲(宅) 兵部少輔入道 〃 2. 5.17~永和2 . 5  
〃 朝房(犬) 弾正少弼入道 〃 2. 5. 27~応安3.11  
〃 能憲(宅) 兵部少輔入道 永和2. 8~永和4. 4.17 (死亡)  
〃 憲春(山) 刑部大輔入道 〃 3.4~康暦1.3. 7 (死亡)  
〃 憲方(山) 安房入道 康暦1.7~明徳2.12  
〃 朝宗(犬) 中務少輔入道 応永2. 3~応永12.1 
〃 憲定(山) 安房入道 〃 12.10~〃 17. 7 
〃 氏憲(犬) 右衛門佐入道 〃 17.10~〃  21.12  
〃 憲基(山) 前宅房方 〃 23.10~〃 25.1.4 (死亡)  
〃 憲実(山) 安房守・安房入道 〃 27. 4~文安4.11  

注 関東管領が二人いた時期(△印)がある。

(山)→山内家、(宅)→宅間家、(犬)→犬懸家をあらわす。


このような内乱が起るたびに武蔵武士が重要な役割を果してきたことは繰返し述べてきたが、山内・犬懸の両上杉氏とも武蔵との関係がとくに深かったため、犬懸側には丹党や児玉党の武士が、山内側には豊島氏や江戸氏らの武州南(みなみ)一揆(武蔵平一揆の再編成されたもの)や武州北白旗(きたしらはた)一揆らが加わっていた。北白旗一揆の別符勝久(べっぷかつひさ)は、正月二日に庁鼻和(こばなわ)(深谷市)の上杉氏に参集し、高坂(東松山市)、入間川(狭山市)を通り、飯田(横浜市)をへて十一日には鎌倉に入っている(古代・中世No一五三)。
いずれにしても禅秀の乱の結果、持氏と山内上杉氏の政治的優位性は決定づけられたが、今度は両者の間に緊張状態が生じはじめた。

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