北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第1節 太田氏の登場と岩付城

太田氏の抬頭
享徳(きょうとく)の乱によって開始された関東地方の争乱はその後もおさまらず、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の抗争・後北条氏の関東進出へと続き、長い戦乱の時代へ突入していった。
この間に鎌倉府の支配秩序が崩壊(ほうかい)し、武蔵国などにおいては、有力国人が周辺地域に進出して広域的な支配領域と家臣団を有する地域的領主として発展していった。扇谷上杉氏の家宰(かさい)として成長してきた太田氏もその一例であり、岩付(岩槻)城を本拠として、市域を含む周辺地域一帯を領有してその支配を推し進めていった。以下、時代をさかのぼって太田氏の成長してくる動向を検討してみよう。
太田氏は清和(せいわ)源氏の一族で、平安時代末期の源平合戦のおりに平氏打倒の兵を挙げて敗れた源頼政・仲綱父子の子といわれている(図15参照)。仲綱の子広綱は源頼朝の御家人となり、その子孫資国(すけくに)の時に丹波国太田郷に住して太田氏と改名したという。資国は、同国上杉荘の領主上杉重能(しげよし)に仕え、重能が建長(けんちょう)四年(一ニ五二)に関東に下向したおり、それに従って相模国に移住したと伝えられる(岩槻市史通史編』P二六〇~二六一、他)。

図15 太田氏略図(『藩翰譜』『寛政重修諸家譜』等による)

太田氏が仕えていた上杉氏は、南北朝・室町時代には関東管領(かんれい)として発展し、山内(やまのうち)・犬懸(いぬかけ)・扇谷・宅間(たくま)の四家に分かれていた。このうち、山内上杉氏が主に管領職についておりその本流であった。そうしたなかで太田氏は、扇谷上杉氏の家臣となり、太田道真資清(どうしんすけよし)のころよりその家宰となっていった。
しかし、実際にはこの道真以前の太田氏の事跡は、古文書等の確実な史料からはほとんど不明である。これは、室町末期のころ、山内上杉氏の家宰として太田氏と並んで両上杉氏の権力を担っていた長尾氏が、南北朝時代以降、武蔵国の在地支配を伝える多くの文書を残していることとは大きな違いである。
上杉氏一族のうちでは傍流である扇谷上杉氏の家宰太田氏は、永享(えいきょう)の乱・享徳(きょうとく)の乱等の室町時代後半の争乱のなかで、下剋上(げこくじょう)の時流にのって成長した新興勢力と推定される。
太田氏の抬頭(たいとう)を伝える最初の事件は、足利成氏(しげうじ)と長尾景仲(かげなか)・太田道真との間でひきおこされた江ノ島合戦である。当時足利成氏は関東管領上杉氏と対立していたが、上杉氏の実権は若年の当主山内上杉憲忠(のりただ)にかわって山内家の家宰(かさい)長尾景仲と、扇谷家の家宰太田道真が掌握しており、両者は関東の支配権をめぐって成氏と対立したのである。宝徳(ほうとく)二年(一四五〇)四月二十日に、太田道真・長尾景仲らが鎌倉の成氏の御所を襲撃しようとしたので、成氏は江ノ島(神奈川県藤沢市)に逃れ、翌二十一日由井(ゆい)が浜(はま)(鎌倉市)で両者の合戦が行われた。しかし、小山・宇都宮・小田・千葉氏等が成氏の加勢にかけつけてきたため、太田氏・長尾氏等は敗走している(『鎌倉大草紙』『県史資料編八』P一〇一~一〇二)。両者の対立はこの後も続いたが、成氏と対立したのは上杉氏ではなく太田道真等であり、太田氏の成長をうかがうことができる。
現在知られている太田氏の初出文書は、太田道真が文安(ぶんあん)四年(一四四七)四月二十日に上州年行事大蔵坊にあてて、相模国内の自由通行を以前のとおり認めることを伝達した書状であり(「内山文書」)、太田氏がこのころ抬頭してきたことを傍証している。

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