北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

河 越 夜 戦
河越城に退去していた扇谷上杉朝興が天文六年(一五三七)四月二十七日に没し、幼少の子息朝定が跡を継ぐと、この機会に北条氏綱は再び上杉氏を攻撃し、同年七月十一日に入間郡三木(みつぎ)(狭山市)で朝定を破って河越城を占拠した。氏綱は七月十八日ごろ敗走する朝定を松山城(比企郡吉見町)に攻めたが、上杉方の松山城将難波田善銀の奮戦により陥落できなかった。難波田氏は、入間郡難波田(富士見市)を本貫の地とする領主で、以後朝定の重臣として活躍する。河越城を掌握した氏綱は、子息の北条為昌(相模国玉縄城主)を城代に配置するが、後に養子の綱成(つなしげ)(同城主)に差しかえている。天文十年七月十九日に北条氏綱が没し、子息の氏康が跡を継ぐと、まもなく上杉氏等の河越城攻撃が行われ、氏康は同年十一月二日、太田弾正忠等六人の家臣に籠城の感状を与えている(『県史資料編六』No.一五一~一五六)。

写真50 北条氏康画像 神奈川県箱根町 早雲寺蔵

(埼玉県立博物館提供)

天文十四年十月ごろ、関東管領山内上杉憲政は扇谷上杉朝定と連合し、古河公方足利晴氏の動座を得て河越城を攻撃した。翌十五年四月二十日、駿河の陣中よりわずかの手勢でかけつけた北条氏康は、夜襲により両上杉氏・古河公方の連合軍を討破った。これを「河越の夜戦」という(『関八州古戦録』、他)。この結果、朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡、上杉憲政は上野平井城(群馬県藤岡市)に、足利晴氏は古河城に敗走した。このおり、松山城将難波田善銀も討死している。
この合戦により上杉氏や古河公方の権力は大幅に衰退した。そして忍城主成田長泰、天神山城主(秩父郡長瀞町)藤田康邦、滝山城主(東京都八王子市)大石定久等の両上杉氏の家臣であった武蔵各地の有力領主達が紆余曲折(うよきょくせつ)を経て後北条氏に臣従したため、武蔵における後北条氏の支配権は急速に拡大した。
この合戦当時の岩付城主は、太田資頼の子息資時(全鑑)とみられる(図15)。全鑑は父資頼と異なり、この前後に扇谷上杉氏から離反し北条氏康に従属していた。太田全鑑は、天文十六年ごろ「左京亮全鑑」の署名で、平林寺(岩槻市平林寺にあった臨済宗妙心寺派の寺院、現在は新座市野火止所在)の安蔵主等に計五点の発給文吾を残している。しかし、全鑑の弟の資正(すけまさ)は、河越夜戦のおりには上杉方の部将として参戦し、その敗北後天文十五年(一五四六)八月ごろ北条氏康の属城となっていた松山城を攻め、城代塀和(はが)氏を敗走させて同城を奪還したという。その後、兄の死により、岩付城主になったと伝えられる(『太田家譜』他)。太田氏兄弟の対立は、後北条氏の圧迫によって、太田氏の権力が動揺していたことをうかがわせるものがある。
扇谷上杉氏が滅亡すると、太田資正はその勢力圏内の一部に独自の地域権力をうちたてることになる。資正は、はじめは北条氏康と対抗していたが、氏康の攻撃を受けてやむをえず降服し、天文十七年ごろには軍事的服属関係に入ったようである。そして資正は、同十八年九月三日以降岩付城周辺地域に文書を発給し、自立した領域支配を開始した。市域も、強力にその支配下に置かれることになる。いつぼう、かって扇谷上杉氏の本拠地であった河越城と松山城は後北条氏の支城となり、市域周辺地域もその領国に編入された。かつての扇谷上杉氏の勢力圏は、太田氏と後北条氏に分割されて統治されることになる。

<< 前のページに戻る