北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

上杉謙信の関東出陣
北条氏康に敗れて上野国平井城(群馬県藤岡市)に撤退していた関東管領山内上杉憲政は、氏康の攻撃により同所をも維持できなくなり、天文二十一年(一五五二)に越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って同国に敗走した。憲政は景虎に山内上杉氏の家督と関東管領職を譲り、後北条氏の討滅を要請した。

写真52 上杉謙信画像 新潟県小林久家蔵

(埼玉県立博物館提供)

上杉謙信は、永禄二年(一五五九)に上京し、将軍足利義輝より憲政の関東支配に協力するようにとの内書を得て関東出陣の準備を完了した(「上杉家文書」)。そして、翌三年九月ごろには常陸(ひたち)の佐竹義重、上野(こうずけ)の長野業正(なりまさ)等関東諸将の要請を受ける形で関東に出兵した。上野の沼田に着陣した謙信は、同国で年を越している。
後北条氏に圧迫され、やむなく臣従していた岩付城主太田資正・忍(おし)城主成田長泰等は、ただちに謙信に属して後北条氏領国の各地に進攻した。同三年より四年にかけて、相模・武蔵の各地に上杉軍兵士の乱暴禁止を保障する禁制・高札が出されている。 それは一〇点にのぼるがそのうち六点が太田資正、一点は成田長泰が発給したものであった(『県史通史編二』第四章第二節、4—28図)。成田長泰は、早くも永禄三年十一月に鎌倉比企谷の妙本寺に禁制を出し、太田資正も翌十二月には比企郡越生(おごせ)町の最勝寺と、江戸城に近い石浜(東京都台東区)の宗泉寺・品川の妙国寺・本光寺に発している。上杉謙信が上野にとどまっている間に、両名がその先鋒隊として後北条氏の領国の奥深く進攻していった様子がうかがえる。特に資正は十二月中に四か所に禁制を出しており、関東における上杉軍の中心勢力であった。
北条氏康は、永禄三年の暮ごろまでに河越城に家臣を籠城(ろうじょう)させ、上杉軍に備えていた。そして、同年十二月二日には、籠城している池田安芸守に判物(はんもつ)を与えて、上杉氏を退散させることができれば恩賞として忍領・岩付領内より望みの地を与えると報じ、太田氏・成田氏攻撃の意志を明確にした(『相州文書』大住郡)。
永禄四年に入ると、上杉謙信は関東の反北条系諸将の参陣を得て相模へ進攻し、小田原城を包囲した。このころ謙信が自軍に投じた武将の氏名等を書きしるした「関東幕注文」(「上杉家文書」)によれば、相模を除く関東七か国の将士二五五人が参陣しており、後北条氏の関東支配は大きな危機を迎えた。北武蔵周辺地域の武将では、太田資正・成田長泰の外、深谷城主上杉憲盛・羽生城将木戸忠朝・広田直繁兄弟(上杉氏の家臣)、騎西城主小田朝興(成田長泰の弟)・大里郡藤田(寄居町)の有力領主藤田氏の一族・多摩郡勝沼城主(東京都青梅市)三田綱秀・下総国古河城主築田晴助等が上杉氏に投じた。彼らは、後北条氏の圧迫を受け強い不満をいだいていた。
いっぽう、市域周辺の有力な他国衆の上田朝直は、彼らとは異なり、子息長則とともに小田原城に籠城して後北条氏に忠節を尽していた(年不詳四月二十四日付、北条氏康•氏政連署奉書「上杉家文書」)。以後上田氏は、一貫して後北条氏に協力し、その権力を背景として比企郡・吉見郡の領主として成長する。
しかし、こうして関東諸将を従えて小田原城を攻撃した上杉の大軍は、同城を陥落させることができずに永禄四年(一五六一)三月二十日ごろ鎌倉に入った。そしてまもなく謙信は、鶴岡(つるがおか)八幡宮で関東管領職拝賀の式を行って、山内上杉氏を継ぎ、上杉憲政より一字を得て長尾景虎より上杉政虎と改名した。後に将軍足利義輝より一字を得て輝虎と改称、さらに後年出家して謙信と号する。この拝賀の儀式のおり上杉謙信は、成田長泰に非礼があったとしてその烏帽子(えぼし)を打落した。そのため長泰は、その辱めを不満として帰国したため、他の諸将もこれに同調して帰陣、謙信はやむをえず上野へ軍を引きかえしたという(『北条記』)。この伝承は歴史的事実とは言えないが、武蔵の有力武将としての成田氏の面影をよく伝えている。上杉謙信は、永禄四年(一五六一)にいち早く離反した成田長泰を牽制するため、忍城北西の皿尾(さらお)城(行田市)に羽生城将木戸忠朝を配置して対抗させている。
謙信は、この年六月二十八日には上野より越後に帰国したが、関東管領として常陸の佐竹義重等を中心とする関東における反後北条領主連合の盟主としての立場を確保し、以後もしばしば関東出陣を繰返している。そのため市域周辺も戦火にみまわれることになる。

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