北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第2節 後北条氏の武蔵進出

松山合戦と謙信の石戸出陣
上杉謙信が帰国すると、武蔵各地では領国の回復を進める後北条氏と、謙信に与(くみ)してこれに対抗する領主との抗争が各地で繰り広げられた。
市域周辺では北条氏康と太田資正との抗争が激化し、永禄四年の秋ごろ資正は後北条氏の支城松山城(比企郡吉見町)を占拠することに成功した。松山城は、かつて天文十五年(一五四六)の河越夜戦の直後、太田資正が支配していたともいわれ、周辺の比企郡は太田氏の勢力圏でもあるので、資正は上杉謙信の後援を得てその接収を進めた。このおり、上田朝直は後北条氏配下の武将として防戦したという。資正は、松山城主に山内上杉氏の一族(憲政の子息ともいう)上杉憲勝を配置している(『鎌倉九代後記』、『上杉年譜』、他)。
松山城を掌握した太田資正は、さらにその周辺の比企郡一帯に勢力の拡大をはかっている。資正は、永禄四年五月二十二日に比企左馬助に判物を与え、勝(すぐろ)(呂)(坂戸市)の西光寺分、および河越庄内小室矢沢百姓分(川越市周辺)を安堵した。そして同年十二月二十一日には、さらに戦功の賞として比企郡代に任じている(『武州文書』比企郡)。
比企氏は、その姓より比企郡内の有力な在地領主と推定されるが、必ずしも太田氏の古くからの家臣であったわけではない。関東管領上杉氏の直臣で自立した領主であったが、その没落後太田資正の傘下(さんか)に入って後北条氏への抵抗を続けていた。しかし、一族は後に松山城主上田氏に仕えており、完全に太田氏に被官化したわけではない。戦国末期には、上田憲定の家臣比企左馬助が比企郡中山(川島町)を、岩付城主太田氏房の家臣比企藤四郎がその近くの井草(同町)を領していた(『寛政重修諸家譜』、『武州文書』比企郡)。
太田資正は松山城を支配下に置くとまもなく比企氏に所領の安堵等を行って誘引し、さらに比企郡代に任ずることでその力を利用しながら比企郡一帯に勢力を拡大しようとした。しかし、そのことは比企郡の有力領主であり、後北条氏に属している上田朝直との対立を深めることになり、北武蔵では両者の抗争が展開された。
永禄五年(一五六二)に入ると、北条氏康は太田資正への圧力を強め、その掃討(そうとう)を積極的におし進めた。同年一月から二月にかけて、岩付城攻略のため太田氏支配下の足立郡に乱入した氏康の軍勢により、水判田(みずはた)の慈眼寺(じげんじ)(大宮市、天台宗寺院で岩付城の祈念所であった)や蕨(蕨市)、篠目(ささめ)(佐々目郷、戸田市周辺)が焼失している(浦和市氷川女体神社『大般若波羅密多経(だいはんにゃはらみたきょう』識語)。同年三月二日に北条氏康は、市宿新田(鴻巣市)の土豪の小池長門守に制札を与え、自軍兵士の乱暴禁止を保障したという(古代・中世No. 一八五)。後北条氏は、さらに岩付領の奥深くに進出し、市域周辺にまでその影響が及びつつあったことが推定される。
後北条氏は、岩付領侵攻と合わせて松山城の攻略・奪還をおし進めた。同年四月五日、氏康は城下・松山本郷(東松山市)の町人衆に虎印判状を与え、松山城攻略のために出陣している後北条軍の兵士が本郷内に立ち入ることを厳禁してその保誕をはかり、かわりに陣中からの小荷駄運送課役や伝馬役(てんまやく)を命じている(『武州文番』比企)。こうしたなかで上田朝直は、後北条氏に協力し、その先兵として太田資正と戦うことで領主としての成長をはかっていった。永禄(えいろく)五年(一五六二)七月二十六日に、両者は大里郡赤浜(寄居町)で合戦している。そのおり、資正の家臣道祖土図書助(さいどずしょのすけ))は、朝直の家臣山田伊賀守直定を討取り、同時に上田氏の家臣二名も戦死している。資正は翌二十七日、道祖土氏に感状を与えて戦功を賞している(「道祖土家文書」、秩父郡東秩父村「浄蓮寺過去帳」「屋代家文書」)。

写真53 太田資正感状 川島町 道祖土武家文書

(埼玉県立文書館保管)

この赤浜合戦の行われるわずか一〇日前、永禄五年七月十六日に資正は、道祖土図書助に判物を与え、比企郡八林(川島町)の深谷民部知行分を与えるとともに、先年図書助の親に与えていた石戸のうち野場の地(北本市荒井・駒場周辺)を安堵し、今後の忠勤を命じている(古代・中世No.一八六)。比企郡三保谷の在地土豪道祖土氏が、このころ市域の領主であったことがわかる。道祖土氏がその地の保障と同時に加増をしており、発給時期や文意より資正は道祖土氏を強力に掌握し、上田氏との合戦に動員するために特にこの判物を与えたということも考えられよう。道祖土氏の本拠の三保谷郷周辺は、岩付領と松山領の領城の境目にあたっており、周辺には後北条氏の家臣の知行地も多い(「小田原衆所領役帳」)。従って、後北条氏の攻勢によって道祖土氏が動揺することは当然考えられ、合戦に備えて自己の陣営に引きつけておく必要から出されたのではなかろうか。
永禄五年(一五六二)十一月、北条氏康は甲斐の武田信玄の来援を得て松山城を包囲した。北条・武田連合軍は五万五〇〇〇人余に達したが、太田資正配下の籠城(ろうじょう)軍は数千人といわれ、太田氏の敗色は濃厚であった(『武州松山書捨』、『上杉年譜』他)。資正は上杉謙信に救援を求めたので、謙信は同年十一月下旬に関東出陣を開始した。深雪をかきわけて武蔵に到着した謙信は、同六年二月の初めごろ松山城に近接している市域内の石戸に着陣している。しかし、当地から松山城に出撃する前の同年二月四日松山城主上杉憲勝は、北条・武田軍の猛攻にたえかねて武田信玄に証人を差し出し開城してしまったのである(古代・中世No.一八七・一八八)。このとき、上杉謙信が着陣した石戸とは岩付太田氏の有力支城であり、避構(いこう)もよく残っている石戸城と思われる。

写真54 石戸城跡 元禄九年秣場論所裁許状裏絵図

なお石戸城には、同五年の秋、北条氏政の命を受けた鉢形城主(大里郡寄居町)北条氏邦の軍勢が同城を攻め、上杉方の守将北条(きたじょう)高広(上野厩橋(うまやばし)城代をつとめた謙信の重臣)が防戦したとの伝承が伝えられている(古代・中世P二四〇~二四一)。歴史的事実とは言いがたいが、上杉謙信の石戸城との関わり等から生まれたものとも推定されよう。参考として記しておく。
松山開城の知らせを聞いた上杉謙信は、やむおえず石戸を発って、同六年二月十一日には岩付城に着陣している。しかし怒りを押さえきれず、北条氏康・武田信玄と一戦もせず帰陣するのは口惜しいとして、忍城主成田長泰の弟小田朝興の守る市域東北の騎西城を攻撃している(古代・中世No.一八八)。長泰は、永禄四年以来上杉氏から離反し北条方に付いていたため、特に帰路に近い同城を攻略して腹いせとしたのである。そして、下野小山祇園城(栃木県小山市)に小山秀綱を攻め、降服させた後、帰国した。こうして、北条氏康・武田信玄と上杉謙信・太田資正の決戦によ って、市域周辺地域は戦火にみまわれたのである。この松山合戦により、関東の支配権をめぐる北条氏康との抗争は謙信・資正の敗北が決定的となり、後北条氏の北武蔵平定も目前にせまってきた。氏康・氏政(氏康の子息で後北条氏当主)父子は、この後他国衆の上田朝直を松山城主に起用し、その力に依存しながら松山領を強力に掌握した。

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