北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

赤 井 坊
市域周辺における岩付城主太田氏の分国支配として、足立郡小室(こむろ)(伊奈町)の修験寺院赤井坊の事例をあげることができる。正式名称は無量寺(新義真言宗)で、その古文書は桶川市倉田の明星院に保存されている。戦国時代の史料は、弘治三年(一五五七)四月八日より天正八年(一五八〇)三月十五日までのもの計九点があり、内訳は、太田資正三点、同氏資二点、後北条氏四点となっている。岩付太田氏およびその権力を継承した北条氏政等の支配策がわかる。
弘治三年四月八日、太田資正は赤井坊に判物を与え寺領を安堵している(古代・中世No.一八〇)。しかし、それは単に旧来の権利を追認したのではなく「新寄進」として与えたものであり、資正が寺領を掌握しその上級領主として立ち現われてきたことを示している。さらに年不詳七月付で、資正は同寺に制札を出し、赤井坊は立野であるとしてその境内等での木草の伐(き)採(と)りを禁止した(古代・中世No.一八一)。立野とは立山規制とあわせて、戦国大名が領国内の家臣や寺社の知行地内にある山野を直轄領に設定したもので、その山林・草木を城郭(じょうかく)の築材その他として収納させた。それによって、大名は私領主の領主権に介入し、住民の採草・竹木利用を大幅に制限して支配下郷村(ごうそん)の直接掌握を推し進めたのである。それは、後北条氏領国内の各地でみられ、太田資正が岩付領内において、後北条氏と同じような戦国大名的領主として立ち現われてきたことが、赤井坊の支配においても確認される。

写真56 大田資正判物 大島隆三家蔵

なお、 年不詳卯年十月十七日付で、後北条氏は赤井坊に禁制(虎印判状)を出し、同坊内の立野において木草を刈りとる者があれば逮捕し、連行するよう命じ、見逃せば領主・百姓を処罚することを通告している(古代・中世NO.ニ一九)。太田資正が赤井坊に設定した立野は、岩付領を支配下に置いた北条氏政に継承されたのである。
このように資正の政策は、戦国末期には嫡子氏資およびその養子氏房の領域支配に受けつがれ、後述するように多くの事例を確認することができる。

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