北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

太田資正の岩付城追放
天文二十一年(一五五二)以後、北条氏康は岩付領への介入をほとんど行わなかったが、永禄三年(一五六〇)以降太田資正との抗争が再開されると、積極的に太田氏の勢力圏内に進出している。同年より、資正が岩付城主であった永禄七年七月までの間に、後北条氏が発給した岩付領地域支配を伝える文書をまとめると表17のようになる。永禄四年三月三日より同七年三月二十三日までの三年間に計七点を数え、これ以前にはほとんど見られないことから、太田氏攻撃の一環として特に出されたものといえる。
表17 岩付領地域に関係する後北条氏の発給文書
番号年月日文書名宛名内容関係地現比定地所収
1(永禄四)三・三 北条氏康判物 大平清九郎 所領宛行予約 足立郡 『武州文書』 荏原郡 
2永禄五・三・二 北条氏康制札写 軍勢・乱暴停止 市宿新田カ 鴻巣市 古代・中世№一八五 
3(永禄五ニ一・ニ一 北条氏康判物 本田某 所領宛行予約 足立郡 本田文書 
4(永禄五)八・二六 北条家印判状 本田某 所領宛行予約 越谷、舎人 越谷市、
東京都足立区 
本田文番 
5永禄五・九・ 一一一 北条氏康判物写 渋江弥十郎 所領宛行 足立郡浦寺郷 鳩ケ谷市 「古文書」 
6永禄六 ・八・一七 北条家印判状 牛込宮内少輔 所領宛行予約 足立郡 牛込文書 
7(永禄七)三・二三 北条家印判状 高橋某 所領宛行(替地)足立郡島根村 大宮市か
東京都足立区 
井田太郎氏所蔵文書
その大部分は、配下の家臣に戦功の賞として、太田氏の勢力圏である、足立郡内から所領を与えることを予約したもので、家臣を通して岩付領占領を推し進めていった。表17にみられるように渋江弥十郎(渋江郷<岩槻市>を本貫の地とする領主)、牛込宮内少輔(牛込郷<東京都新宿区>の領主)等の岩付領周辺地域の在地領主を動員して、太田氏を牽制したのである。こうした北条氏康の政策により、太田氏の権力はおびやかされつつあった。上杉謙信の関東常駐を期待できない以上、広大な領国を有する北条氏康に対して太田資正の劣勢は明白であった。そして、永禄六年(一五六三)二月の松山開城によって、太田氏の敗北は決定的となった。
永禄七年一月に、太田資正は後北条氏に最後の反撃を試み、後北条氏から離反した江戸太田氏の当主康資および房総の戦国大名里見義弘と連合して、下総国国府台(こうのだい)(千葉県市川市)に布陣した。しかし、一月八日に北条氏康・氏政父子の奇襲により里見・太田連合軍は大敗を奥し、資正と康資は敗走した(『北条記』『関八州古戦録』、他)。この国府台合戦の敗北による痛手を回復できないうちに、資正は北条氏康の意を受けた子息氏資(初名、資房)によって、同年七月二十三日に岩付城から追放されてしまった。北条氏康は、太田氏資の家臣恒岡越後守・春日摂津守らと謀り、資正が下野の反北条系大名宇都宮広綱のもとに相談に行っている間に江戸城将の太田大膳亮に軍勢をつけて岩付城に派遣したという。そして、氏資と協力して資正の岩付帰城を拒んだのである(『関八州古戦録』『異本小田原記』、等)。太田資正は、やむなく娘婿の忍城主成田氏長のもとに身をよせたとも言われている。そしてまもなく常陸(ひたち)の戦国大名佐竹義重の支援を受け、子息で氏資弟の梶原政景とともに同国に移った。
後北条氏は、氏資と資正・政景父子の対立を利用して岩付城を攻略したのである。国府台合戦の後、北条氏康は資正に講和を申入れたともいわれ、後北条氏の圧力に屈して臣従するかどうかをめぐって太田氏権力の内部で対立があったのであろう。氏資は、これ以前に北条氏康の娘(長称院)と婚約していたが、資正追放後正式に結婚して氏康に臣従しその支配下に入ったのである(比企郡川島町・養竹院所蔵「太田資武状」、他)。こうして岩付領は、後北条氏の領国に併合された。
太田資正・政景父子を客将として常陸国に迎え入れた佐竹義重は、永禄八年(一五六五)から九年ごろ、資正を同国片野城主(茨城県新治(にいはり)郡八郷(やさと)町)に、梶原政景を柿岡城主(同上)に配置している『古文書雜集』所収、佐竹義重書状写)。資正は、岩付退城後出家して道誉と号し、以後佐竹氏の援助を受けて天正末期(~一五九二)に至るまで、後北条氏の打倒と岩付領回復の活動を精力的に続けることになる。

<< 前のページに戻る