北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第3節 太田氏の発展と北本

太田氏資の岩付領支配
岩付城主になった太田氏資は後北条氏に服属し、以後名前を資房から氏資に改めたという(『岩槻市史通史編』)。後北条氏当主の通字「氏」を得て、一族に準ずる待遇を与えられたのであろう。そして、永禄七年(一五六四)九月七日より岩付領内に文書を発給し、領域支配を開始した。後北条氏は、太田氏の他国衆としての自立した権力を認め、戦闘等に軍事動員する他はその支配権に介入することはなかった。
資正治政の末期に頻出(ひんしゅつ)していた岩付領支配を伝える後北条氏の発給文書は、氏資のもとでは一点も存在していないのである。北条氏政は、同八年六月九日に家臣の森遠江守に虎印判状を与え、先に給付した知行地が「岩付本領」のため、その替え地として河越三三郷池辺郷(川越市)を与えている(「大谷文書」)。氏資の岩付領支配に抵触しないよう、慎重に配慮をしていた様子がうかがえる。氏資が岩付城主であったのは、永禄七年七月より同十年八月までの三年間にすぎないが、この間に計十六点の文書を領内に残している。資正の発給文書に比して発給頻度はかなり高い。
氏資は、永禄七年十月十五日に比企郡井草(川島町)の百姓中に印判状を与え、同郷を十年間荒野にして課役を減免し、住民を移住させて開発するよう命じた(古代・中世No.一九五)。また、同年十一月二十八日には岩付城下渋江の鋳物師(いもじ)に諸公事(くじ)免除を安堵(あんど)し、その保護をはかっている(『武州文書』埼玉郡)。
永禄九年十一月二十三日には、法華寺(岩槻市にある臨済宗寺院)と内野清河寺(大宮市清河寺にある臨済宗寺院)に判物を与え、門前における諸公事・棟別銭免除を保障した(「法華寺文酉」、「清河寺文書」)。同年十一月二十八日には、足立郡小室の赤井坊に寺領をめぐる訴訟の裁決を伝え、その田畑を安堵したのである(古代・中世No. 一九九)。そして、同十年二月一日には鎌倉・円覚寺(臨済宗大本山)の塔頭(たつちゅう)帰源庵に判物を与え、比企郡八林(川島町)のうち長福寺分・駒形宮免・雷電宮免の三か所を安堵するとともに、検地を行うことを報じている(『武州文書』比企郡)。
このように、氏資は市域周辺の各地で荒野の開発、職人衆の保護と統制、諸公事・棟別銭賦課権の行使、寺領をめぐる訴訟の裁定、検地等を行っていた。これらは皆、戦国大名の政策として知られるものであり、氏資が父資正と同様大名的な地域権力に成長していた様子がうかがえる。また領内の寺院にその権利を保障したものが多く、その保護を通して民心の掌握をはかっていった。
岩付太田氏の発給文書には三点の印判状が含まれているが、そのうちニ点は氏資が発給したもので、先述した比企郡井草の百姓に荒野の開発を命じたのはその一例である。また、春日摂津守が奉じた奉書式印判状も伝存しており(「内山文書」)、家政機構の整備がうかがえる。
氏資は、永禄九年(一五六六)十月二十四日に芝郷(川口市周辺)の土豪内山弥右衛門尉に判物を与え、大串之内銀屋(比企郡吉見町)に十七貫文を与えている(「内山文書」)。当地は松山城の東南約四キロメートルの地にあり、すでにその近くまで岩付領であった。後北条氏に服属し協力することで、代償としてその領域が拡大したことも考えられよう。同十一年三月二十七日に、北条氏政が太田氏資の重臣恒岡越後守の弟平林寺住持・泰翁宗安に与えた虎印判状によると、氏資は生前氏政より比企郡野本小山田方(東松山市)を付与されていた。しかし、同地には松山城主上田朝直の知行地もあるのでそれを除き、野本鎌倉方の代官に宗安を任じている(「平林寺文書」)。同地は松山城の西南約二キロメートルの地にあり、太田氏の支配領域が松山領内の奥深くに拡大していった様子がわかる。

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