北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

後北条氏の岩付領支配
永禄十年(一五六七)八月以降、岩付領は北条氏康・氏政父子の直轄支配下に置かれ、以後太田氏の家臣団と領民はその専制支配に組みこまれていった。
太田氏資の戦死後、後北条氏は太田大膳亮(だいぜんのすけ)と春日摂津守を岩付城将として配置したという(『関八州古戦録』)。太田大膳亮は江戸衆に属する江戸城周辺の有力領主で、多くの寄子衆(よりこしゅう)を有する江戸城将の一人でもあった(「小田原衆所領役帳」、長塚孝「江戸在番衆の一考察」『戦国期東国社会論』)。同七年八月の太田資正追放のおりには、太田氏に圧力をかけるため後北条氏の武将として岩付城に派遣されたという。また春日摂津守は、太田氏資の重臣として知られ、その印判状の奉行人でもあった。天正五年(一五七七)に北条氏政が定めた岩付衆の軍事編成、および同七年二月二十五日付の北条氏舜判物によって、史料からも多くの家臣を指揮する有力武将であったことがわかる。観応(かんのう)三年(一三五二)九月十八日に足利尊氏から桶川郷菅谷村(上尾市)を与えられた春日行元の子孫と伝えられ、足立郡内に古くから土着していた在地領主であった。太田資正追放のおりにも、後北条氏に協力してその謀議に加わったという(「内山文書」、『思文閣古書資料目録』、『新記』)。
永禄十年(一五六七)九月十日、北条氏政は三船山合戦で太田氏資とともに戦死した恒岡越後守・加藤源二郎・内田氏の遣族に判物を与え、その戦功を賞し遺跡相続を認めている(古代・中世No.二〇〇、他)。また、同日氏政は足立郡飯田郷(大宮市)の百姓にも禁制を出し、郷内での北条軍兵士の乱暴禁止を保障し、違反者は御一家衆・家老・誰の被官であろうとも岩付城の当番頭まで連行するように命じたのである(『武州文書』入間郡)。占領軍である後北条氏の家臣が、太田氏支配下の郷村と軋轢(あつれき)をおこさないよう慎重な配慮をしている。こうして氏政の岩付領支配は開始された。まず、太田氏の家臣や領民にその権利を保障し、権力交代による動揺をおさえようとしたのである。ついで氏政は、太田氏資の直轄領を掌握するため、太田氏の家臣をその代官に任命している。同十年九月三十日、道祖土(さいど)図書助と恒岡越後守の弟で平林寺住持の泰翁宗安に、それぞれ三尾谷(みおのや)・戸森(川島町)および原宿(上尾市)の代官職を安堵(あんど)した(古代・中世No.二〇二・二〇三)。

写真60 北条氏政画像  

神奈川県箱根町 早雲寺蔵(埼玉県立博物館提供)

翌年三月二十七日にも泰翁宗安(恒岡氏)に判物を与え、生前太田氏資に与えることを約していた野本小山田方に替えて、隣村の同鎌倉方(東松山市)の代官に任命している。恒岡越後守は、春日摂津守と並んで太田氏資の重臣として知られる人物である。なお、野本鎌倉方はもともと松山領に属し、太田氏資に特に与えられた地で、江戸城代遠山氏の知行地もあるため紛争がおこっている。永禄十一年(一五六八)六月二十三日に氏政は、宗安に印判状を与え、同地を恒岡氏に任せることはすでに遠山氏にも命じたもので安心して年貢を取りたてるようにと報じている(「平林寺文書」)。太田氏の権利を保護するため重臣の遠山氏をも押さえており、その慎重な配慮がうかがえる。このように氏政は、太田氏の家臣を動員してその直轄地を掌握したが、同時に代官任命の判物には、掟(おきて)に背いた場合には改易(かいえき)することが明記され、太田氏家臣の統制と郷村の掌握も進められた。
岩付領を支配した後北条氏は、太田資正・氏資父子が家臣等に与えた知行宛行(あてがい)状(太田美濃守・道也証文)にもとづいて、その権利を安堵した。それは、以後の岩付領支配の一貫した政策であり、訴訟がおこされた時も裁決の根拠とされた。北条氏政およびその子息の太田氏房等が行った安堵は計二〇例にも及んでいる。
先述したように、太田氏資は永禄九年(一五六六)十一月二十八日、足立郡赤井坊に寺領をめぐる訴訟の裁決を伝え、「論田」を安堵している。ところがその寺領支配は不安定で、天正二年(一五七四)に内田新二郎との相論があり、北条氏政は九月十日、この氏資判物によって、「太田道也証文明鏡也」と赤井坊の勝訴としたのであった(古代・中世No.一九九・二一ニ)。市域周辺では、永禄十年十二月二十三日に内山弥右衛門尉に大串之内銀屋(比企郡吉見町)を安堵したのもその一例である。このように、北条氏政は、はじめは太田氏の旧例を尊重しその権力を背景としながら、しだいに専制的な支配を領内に及ぼしていったのである。

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