北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

岩付城代北条氏繁
後北条氏の岩付領直轄支配が開始されてまもなく、永禄十二年(一五六九)から天正二年(一五七四)にかけて、関東地方では氏康・氏政父子と、上杉謙信・武田信玄との抗争が激しさを増し、市域周辺各地で合戦が行われた。越相(えっそう)同盟交渉で、太田資正の岩付帰城が問題にされる等、後北条氏の「領」内支配にも不安定さが増してきた。太田氏資が戦死して以後、資正・梶原政景父子は岩付領への介入を深め、髙麗(こま)豊後守や三戸氏等の太田氏系の領主に領内からの給地宛行(あてがい)を予約している。
こうした情勢に対処し、岩付領および太田氏家臣をより強力に掌握するため、氏政は一族の相模国玉縄城主北条氏繁(初名、康成)を岩付城支配に関与させている。氏繁は、元亀二年(一五七一)ごろ、父綱成に代わつて玉縄城主となったが、永禄十三年二月二十日より天正二年十一月五日まて、岩付領内に文書を発給、岩付城代に相当する地位にあった。なお、北条氏政が岩付領支配を開始するにあたって、永禄十年九月十日付で足立郡飯田郷に出した禁制に、氏繁は奉行人として署名しており(『武州文書』入間郡)、岩付領との関わりは以前から継続していた。それは、上杉氏・武田氏等の攻撃から岩付領を守り、近接する下総国関宿城・武蔵国羽生城攻略に岩付衆を動員するためであった。

写真61 北条康成(氏繁)書状

宮代町 西光寺蔵(埼玉県県史編さん室提供)

氏繁は、天正元年(一五七三)二月十六日に鷺宮神社神主の大内氏に書状を与え、氏政より太田岩付領の防備を申付けられ、忍城主成田氏長の要請を受け羽生城攻略のために出陣してきたことを報じている(「結城寺文書)。氏繁は、元亀三年(一五七二)六月に、京都聖護院配下の修験寺院、大行院(鴻巣市南下谷に所在した)に判物を与え、上足立三三郷の伊勢熊野先達(せんだつ)衆檀那職を太田氏資の証文により安堵している(古代・中世No.ニ一〇)。修験先達職の保障は弘治二年(一五五六)三月五日に太田資正が大行院に安堵して以来、岩付城主の権限に属していた。そのため、氏繁も太田氏の権力を引き継いで安堵したのである。ただし、氏繁は「そのことは承知したので、氏政に取りつぐ」と大行院に報じており、最終的な決定権はなく城主ではなく城代としての性格がうかがえる。太田資正の介入等により、後北条氏の岩付領支配はまだ不安定で、氏繁に全権を委任するほどにはその権力は確立されていなかったのであろう。
天正二年(一五七四)閏十一月に、関宿城主簗田晴助父子が氏政に降服、羽生城も破却されたため後北条氏の北武蔵支配は安定した。そのため、北条氏繁は引き続いて隣接する常陸(ひたち)・下総攻略に当たるために、下総国飯沼城主(茨城県猿島(さしま)郡猿島町)に配置され、岩付領は再び氏政の直轄支配下に置かれた。しかしこの後、玉縄衆の一員と考えられる福島氏が岩付城の重臣に取りたてられ、氏繁の子息氏舜・氏勝兄弟(玉縄城主)が岩付衆を軍事指揮しており、玉縄城主北条氏と岩付領との密接な関係は継続していた。

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