北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

軍役と家臣団編成
北条氏政は、元亀三年(一五七二)一月九日に岩付衆の軍役改定を定め、宮城泰業(やすなり)等に命じている(古代・中世No.二〇五・ニ〇六)。同二年十月三日に隠居の北条氏康が死去し、氏政が名実ともに後北条氏の当主になったことから、その代替わりに当たって定められたのであろう。それによると太田全鑑以来の岩付太田氏の家臣であり、岩付衆の有力家臣でもある宮城泰業は、足立郡大間木(浦和市)等七か所、計二八四貫四〇〇文の地より三六名の出役を命じられている。それらは、各知行地内に土着していた被官(家臣)を中心に編成したものであろう。宮城氏は、下級家臣を従える上級領主であった。
また道祖土図書助は、比企郡八林(川島町)二五貫文の知行地内より騎兵二、歩兵一の軍役を命じられ、同じく軍装を厳しく規定されている。道祖土氏は宮城氏と異なり郷村内に土着する地侍で、知行地は一か所、軍役人数も極めて少ない。「八林之内屋敷分」という知行地の内容からも、農兵的性格の強い零細な土豪としての性格がうかがえる。岩付衆における上級家臣・下級家臣という二つの階層が明らかになる。
これらの着到状には、「右着到、分国中いずれも等しく申し付け候間、自今以後この書き出し候処、いささかも相違あるべからず候、違背(いはい)においては越度は、法度の如くたるべきものなり」と記されているが、実際にはこの時の軍役改定令状は、岩付衆に出した三通以外には伝存していない。このことから北条氏政は太田氏の家臣達にも、後北条氏領国内の統一的な軍役賦課基準を強制させようとする意図がうかがえる。しかもこの改定は、岩付衆を関宿城攻め等に軍事動員するための準備でもあった。

写真62 北条家印判状 尾 首 豊島宮城文書

(国立公文書館内閣文庫蔵 埼玉県県史編さん室提供)

岩付衆の家臣団編成は、天正五年(一五七七)七月十三日に北条氏政が宮城泰業等に命じた「岩付諸奉行、但今度之陣一廻之定」(「豊嶋宮城文書」)によってうかがえる。それによると、この時出陣を命じられた岩付の軍勢は一五八〇人余で、騎兵・歩兵・鑓(やり)・小旗等の各隊に分かれ、十三の奉行が支配していた。騎兵(五〇〇騎余)、歩兵(二五〇人余)、鑓隊(六〇〇本余)等が特に多く、軍事力の中心であった。
各奉行はおおむね複数で構成され総数ニ一名で、彼らが岩付衆を指揮した部将といえよう。全体を指揮した総奉行は、宮城泰業・細谷資満・福島四郎右衛門尉等五名と思われる。これら奉行には、宮城氏の他、細谷資満・潮田資勝((足立郡寿能(じゅのう)城主)・春日家吉・高麗大炊助(おおいのすけ)・河目大学・渋江式部太輔(しきぶたゆう)等、太田氏家臣や岩付領周辺の在地領主と思われるものが多い。太田氏家臣を中心とする岩付衆の構成が理解される。そうしたなかで、玉縄衆から起用した福島四郎右衛門尉の他、後北条氏家臣と推定される立川氏が二名含まれる等、北条氏政の支配権も岩付衆の中に浸透しつつあった。このうち河目大学は、市域の宮内を支配した河目資好の関係者とみられる他、細谷資満は、戦国末期には比企郡井草(川島町)を支配する有力領主であった(『武州文書』比企郡)。軍役着到令状によって各郷村から徴発された下級家臣は、彼ら部将のもとに編成された兵卒であった。

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