北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

検地と郷村の開発
戦国大名の財源は、直轄領からの年貢(ねんぐ)と領国内の各地郷村から徴収する反銭(たんせん)・棟別銭(むなべちせん)等の税であった。これらは郷村の貫高にもとづいて徴収され、軍役を賦課する基準にもなっていた。そのため後北条氏は貫高を確定し、年貢等の増徴と軍役の増加をはかるため検地を実施している。
北条氏政も、太田氏の直轄領をその代官を通して掌握するとまもなく検地を行っている。永禄十年(一五六七)十二月二十三日には、早くも足立郡原宿(上尾市)の代官を安堵した平林寺住持の泰翁宗安(恒岡越後守の弟)と同郷の百姓に検地書出を与えている(「平林寺文書」)。そして、田畑面積一ニ町六反余を対象に、二三貫三二四文の貫高を確定し、そこから神田・代官給等、村側の必要経費を差し引いた二〇貫五二四文が岩付城(後北条氏)への上納額とされた。一反につき、田は三〇〇文、畠は一六五文の換算率で貫高は算定された。それは、後北条氏領国内の標準的な貫高の換算率で、岩付領内の郷村は、早くも後北条氏の統一的な支配政策に組みこまれたのである。
天正五年(一五七七)五月二十六日に、氏政は入間郡府川郷の代官竹谷・大野にも検地書出を示している(古代・中世No.ニ一四)。両名が、府川郷には隠田(おんでん)(領主に隠して耕作し、徴税を免がれている田)があると訴えたため検地を実施し、多額の増分を確認して新しい貫高を決定したのである。氏政は恩賞として両名を同郷の代官に任命したうえ、代官給とは別に五貫文を与えた(「大野文書」)。検地によって確定された岩付城への納入高は四六貫三五三文であるが、このうち本年貢の一七貫二四二文よりはるかに多い二四貫一一一文もが、増分であった。後北条氏は、郷村内の地侍の成長を積極的に利用しつつ直轄領府川郷を強力に掌握したのである。
決定された年貢額は、竹谷等への給分を除いて毎年「岩付御蔵奉行衆」へ納入するよう通告されている。岩付蔵奉行の職制により、官僚制的支配機構の整備がうかがえる。それは、岩付領内からの税を管理し、それを家臣や寺社に扶持銭等として配当する役職であり、太田氏家臣の佐枝氏・恒岡氏等がつとめていた。
天正六年(一五七八)四月七日には、比企郡三保谷(川島町)の代官道祖土康玄と百姓中にあてて検地書出が出されている(「道祖土家文書」)。同所の貫高は二六六貫八〇文とされ、このうちから養竹院(太田氏の菩提所)および福島氏・矢部大炊助の知行分等、家臣や寺社の給地を除いた二〇四貫五一〇文が御領所(直轄地)であった。そこからさらに郷村側の免除分を差引いた一六〇貫文が岩付城への上納額として通告された。調査の結果、この時も五四貫一〇文もの増分が摘発され、そのうち一四貫文が免除されている。以後毎年この額の上納が強制された。このように、市域周辺で知られる検地の事例はすべて直轄地であり、後北条氏がその掌握と年貢増徴を強力に推し進めたことがわかる。
北条氏政とその家臣達は、検地とあわせて郷村の開発を奨励することで、さらに収入の増加をはかっていった。天正六年二月六日、岩付衆の有力家臣細谷資満は、比企郡井草郷(川島町)の百姓等に不作田畑の開発を命じ、妨害する者はたとえ後北条氏の代官であろうとも通報するよう伝えている。開発地は一〇年間は荒野に指定し、免税としてその開発を奨励した(古代・中世No.ニ一五)。先述したように、同年四月七日北条氏政は比企郡三保谷郷(川島町)の検地書出を命じているが、そのおりにも郷内の開発を命じている。荒地(不作地)として田一七町、畠一〇町七反を把握し、その開発を奨励して数年間の年貢免除を伝えている(「道祖土家文書」)。
このように検地と郷村の開発によって、後北条氏の収益は飛躍的に増大した。それは兵糧米(ひょうりょうまい)や家臣への扶持(ふち)給、軍役賦課基準の改定等となり、岩付衆を北関東の攻略に動員する際の重要な財源となったであろう。

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