北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

太田氏房の岩付城入城
北条氏政は、岩付領を強力にその領国支配の中に組みこんでいったが、太田氏の旧例を尊重しつつその家臣を動員して統治を行う等、太田氏の影響力を完全には否定しえなかった。そのため子息を太田氏資の婿養子として岩付城主にして、摩擦なく当地域を支配しようとしたのである。氏政の二男で、越相同盟のおり越後下向をまぬがれた国増丸が、最初に太田氏資の婿養子として天正初年ごろには岩付城主に相当する地位についていた(『武州文書』足立郡、笠原康明書状)。国増丸はまもなく源五郎と改称している。この名は岩付太田氏当主の通称として知られ、資正・氏資父子等が名のっている(「太田潮田系図」)。
北条氏政は、天正八年(一五八〇)に家督を子息氏直に譲り隠居するが、その後も岩付領の支配権はてばなさず、以後虎印判状(後北条氏の家印)にかわり、氏政の印判状が「領」内に出されるようになる。そしてまもなく、同九年六月二十六日に、氏政は足立郡の太田窪(だいたくぼ)(浦和市)、淵江(ふちえ)(東京都足立区)、芝(川口市周辺)等、各地の郷村農民に、かって太田資正が課していた陣夫を今は誰に提供しているのかを小田原まで報告するよう命じ、ついで七月八日には、比企郡三保谷の道祖土図書助や金子越前守・同中務丞(なかつかさのじょう)等の岩付衆に改定着到状を与えている(古代・中世No.ニニニ他)。

写真63 戦国時代の具足

(埼玉県立博物館所蔵)

それは、氏直への代替りに伴う改定であるが、同時に陣夫役の旧例調査とあわせ太田源五郎に岩付城主としての権限を讓るための準備であったと思われる。道祖土図書助は、この時騎兵一、歩兵二の計三名の着到改定を至急に整備するよう命じられ、さらに七月十七日には追加の軍装(馬鎧(よろい))用意を指示されている(古代・中世No.ニ二三・ニニ四)。人数は、元亀三年(一五七二)の着到改定時と同じであった。なお、このおり着到状を受けた金子越前守と中務丞は親子で岩付太田氏の家臣であったが、後北条氏滅亡の後、市域周辺の足立郡中野村(鴻巣市)を開発し土着したとの伝承が伝えられている(『武州文再』足立郡、『新記』中野村)。
太田源五郎は、天正十年(一五八二)七月八日に死去した(小田原市「伝心庵過去帳」、黒田基樹「後北条氏の岩付領支配」『埼玉地方史』二五号他)。そのため、弟の氏房(氏政の子息)がその名跡を継ぎ岩付城主となった。氏房という名前も、養父太田氏資の初名、資房から名づけられたのであろう。氏房は、同十一年七月二十八日に比企郡井草(川島町)と足立郡与野(与野市)の百姓に印判状を出し、棟別銭等の上納を命じている(『武州文書』比企郡、「立石文書」)。以後天正十八年まで七年間にわたり、父氏政の後援を得て岩付領を支配した。
氏房は、天正十三年に太田氏資の娘小少将と結婚した。北条氏政夫妻は、婚礼に参列するため江戸城より岩付城に向かい、氏政は七月十日付で岩付の重臣太田備中守・宮城為業・福島出羽守にその行列と警護の武士を列挙した行列次第を与え、出役を命じた(「豊島宮城文書」)。行列は一八番にわかれ多数の家臣が参列しているが、大半が岩付衆であろう。この行列の惣奉行は、宮城為業と福島出羽守がつとめた。宮城氏は太田氏の家臣、福島氏は後北条氏の直臣から登用された者で、婚礼によって太田氏と後北条氏の盟約を固めるため、岩付衆の両系家臣を代表させて両名にその役目を与えたのであろう。
氏政は、この行列次第を命じたのと同じ日、道祖土満兼にも婚礼に参列するため至急江戸城に出仕することと、その際の装束しぐさ等を詳細に示し 太田備中・宮城・福島の指示に従うよう命じている(「道祖土家文書」)。これに先だって氏政は、同年四月五日に、道祖土氏の他、金子中務丞・藤波与五右衛門等の岩付衆に、きたるべき調儀(ちょうぎ)にあたっての軍装の整備を命じ、具足等を修復してきれいに直し、小旗類も見苦しくないように新調するよう細かく指示している(古代・中世No.二三一、『武州文書』足立郡等)。
これは、氏房の婚礼のために彼らを参列させるための準備でもあったと思われる。藤波与五右衛門は、石戸郷藤波(上尾市)を本貫の地とする地侍とも考えられ、道祖土氏等とあわせて市域周辺の地侍がこの婚礼に動員されたことをうかがい知ることができる。このように婚儀は、多数の岩付衆を動員して岩付城で行われ、太田氏房の岩付城主取りたてを内外に印象づける盛儀となつた。

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