北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

氏房の岩付領支配
太田氏房の発給文書は、天正十一年(一五八三)七月二十八日より同十八年六月二十五日まで計七五点が残存している。それによって、岩付領の後北条氏領国への統合、支城領化は完成したのである。その点数は、叔父の滝山城主北条氏照・鉢形城主北条氏邦等と並んで各地の支城主の中でも特に多く、大きな権限を与えられていたことがわかる。このうち七四点までが岩付領の支配に関するもので、氏房は、後北条氏の宿老でもある氏照・氏邦とは異なり、「領」域支配に専念していた。

表18 太田氏房発給文書 年次別一覧
年 点数 
天正11 
天正12 
天正13 
天正14 11 
天正15 23 
天正16 11 
天正17 
天正18 
年不詳 
合 計 75 

『武州岩付城主太田氏房文書集』等より作成


氏房の家臣団は、太田氏の旧臣と後北条氏の直臣から配置された家臣とからなっていた。そして印判状の奉行人等となっている重臣層は、氏政より付けられた後北条氏系家臣が多かった。筆頭の重臣伊達与兵衛房実(ふさざね)、奉行人の福島又八郎等が知られる。この他、氏政の側近で岩付領支配に関与した板部岡融成(いたべがおかとおなり)(江雪斎(こうせつさい))の子息房恒(ふさつね)も岩付衆という。その名前は、伊達房実と共に、氏房の偏諱(へんき)を受けたものであろう(『寛政重修諸家譜』所収、「岡野氏系図」)。また、氏政の代から引き続き中堅家臣であった立川氏も後北条氏系家臣と思われる。しかし、この他の中堅家臣は太田氏家臣が比較的多い。奉行人の宮城泰業、寿能城主(大宮市)潮田資忠・資勝父子、岩付蔵奉行恒岡氏・佐枝氏等が知られる。氏房の支配は、父氏政とともに太田氏の家臣に依存していた。


写真64 南蛮鉄灯籠 岩槻市慈恩寺

伊達房実が寄進した

氏房の発給文書は天正十三年まではあまり多くなく、またこの時期にはその訴訟の裁決に北条氏政側近の板部岡融成(江雪済)、垪和康忠が「糺明之使」として関与しているところより、その権限は制限されていた(『武州文書』足立郡、「豊嶋宮城文書」)。しかし、天正十四年(一五八六)以降その発給文書は急増している。それは、後述するように(本章第五節)豊臣秀吉の来攻に備えて、軍役の増強や岩付城の普請(ふしん)等、臨戦体制を強化したためでもあったが、同時に天正十三年の結婚を契機に氏房が支城主として自立したことをも示している。同十四年には、鎌倉鶴岡八幡宮をはじめとして、岩付領内を領している寺社にいっせいに領地の安堵を行っている。氏房が、同年四月六日鎌倉鶴岡八幡宮に、「佐々目郷(浦和市、戸田市)続目之祝儀」として贈答品を受けたことを謝して書状を送っていること等から、それらは代替りに伴う継目安堵であった(一鎌倉鶴岡八幡宮文書」、「平林寺文書」、他)。同年二月二十七日、広徳院に比企郡八林(川島町)の・長福寺領等を安堵したのも、その一例である(『武州文書』比企郡)。先述した北条氏政が同十三年四月五日に岩付衆に与えた軍装改定令状も、代替りに伴う着致改定令状としての性格を持っていたと思われる。氏房は、婚礼によって名実共に岩付太田氏の当主となり父氏政から自立したのであろう。
以後、氏房は、 伊達房実・宮城泰業等の重臣逹に補佐され、後北条氏の強大な権力を背景にして岩付領を掌握した。氏房の発給文書は、豊臣秀吉の関東侵攻に備えて出されたものが圧倒的に多く、その「領」域支配は臨戦体制のもとで急速に強化されていった。それらは市域周辺では、比企郡三保谷の領主道祖土氏および近接する井草の百姓等(ともに川島町)にあてたものが多い。関係史料は、河川普請役・岩付城等の普請役・軍役賦課に関する事例が多い。

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