北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第4節 後北条氏の支配と北本

箕田郷堤の普請
市域周辺における太田氏房の支配の事例として、箕田(みだ)郷(鴻巣市)に築かれた旧荒川(現在の元荒川)の堤防築造工事をあげることができる。後北条氏は、領国内の農民に大普請役(郷村の貫高を基準に賦課した小田原城や支城の普請夫役(ぶやく))を課しており、その人足の一部を動員して行った。
すでに、北条氏政は天正八年(一五八〇)七月二日に、比企郡井草(川島町)の代官細谷資満と百姓に荒川堰の築堤工事のため人足五人の出役を命じている(古代・中世No.二ニ一)。太田氏房はこうした氏政の政策を受けつぎ、同十二年二月八日に荒川・箕田郷堰の堤防築造を、同じく井草の細谷資満支配下の百姓と近接する同郡八林(川島町)の道祖士満兼支配下の百姓に命じたのである。昨年、天正十一年分の大普請役(恒常的な城郭普請夫役)を課さなかったのて、その替りとして井草は五人、八林は一人の人足動員を命じ、二月十九日までに箕田郷に集まり奉行の指示に従って二十日より二十九日まで十日間で工事を完了させるよう通告した。そして、期日に遅れれば一日の遅参につき五日間の追加労働を課すことが「惣国之法」により決まっていると厳命したのである(古代・中世No.ニ二九・二三〇)。

写真65 太田氏房印判状 川島町

道祖土武家文書(埼玉県立文書館保管)

後北条氏の領国では、おおむね大普請役は毎年村高二十貫文に人足一人、各十日間の出役が義務づけられており、岩付領でもその規定が適用されたのである。そして、もしその年に徴発しない場合は他の年に課され、 河川普請夫役にも転用されて、他郷にまでいって奉仕しなければならず、郷村農民にとっては重い負担であった。しかし、近隣の多くの郷村から農民を強制的に動員して堤防普請を行うという、氏政・氏房父子の積極策により、水害の予防が進み、農業の整備・安定が急速に前進した。氏房は、天正十五年五月二十四日にも、与野郷(与野市・浦和市)の百姓等に、郷内の入間川・周防堤の築堤工事を命じている(「井原家文書」)。
ところで氏房は、普請人足が遅延した時の処罰規定を「惣国之法」として明示している。それは、後北条氏の全領国に統一的に適用した国法のことであり、北条氏政が岩付領を掌握して以後「領」内には、税や普請役を徴発するさいにこうした命令が数多く出されるようになる。関係史料は、永禄十年(一五六七)九月三十日より天正十七年七月二十日までに二十点にも達し、氏政より十点、氏房より十点出されている。呼称は、「御分国中御法」・「御法」・「法度(はっと)」等、さまざまであるが同内容であった。例えば氏房は、天正十一年七月二十八日に、比企郡井草の百姓に棟別銭一貫五〇〇文の上納を命じ、遅延した場合は「御分国中御法の如く」過銭(延滞銭)を取りたてると通告している(『武州文書』比企郡)。また、同十四年二月六日に氏房は、比企郡八林の道祖土満兼支配下の百姓と井草の細谷資満支配下の百姓に岩付城の普請を命じ、「若し一日に一人の不参に付いては、御法の如く過失として、五人宛召し仕わるべきものなり」と通告している(古代・中世No.二三二・二三三)。先ほどの「惣国之法」と全く同じ、大普請役の国法であった。本年貢以外の課役である棟別銭・大普請役にも共通する国法が定められていたのである。こうした国法を通して氏房は、後北条氏の専制的な権力を背景に「領」内を統治したのである。岩付領の後北条氏領国への統合を示す重要な例証といえよう。

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