北本市史 通史編 古代・中世
第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領
第4節 後北条氏の支配と北本
氏房の家臣、深井氏市域深井を本貫の地とする領主深井氏は、岩付太田氏の家臣であったが、戦国末期には後北条氏に属し太田氏房に仕えていた。氏房は、天正十六年(一五八八)七月三日比企郡井草宿(川島町)の百姓にこの年の公役銭を九月十五日までに立川・深井の両名に納めるよう命じている(古代・中世No.二四五)。これは、岩付領内の各地郷村から本年貢とは別に徴収された税である。それらは、岩付蔵奉行の佐枝氏・恒岡氏が管理している例が多いので、この時深井氏は立川氏とともに蔵奉行に相当する地位にあったものと思われる。深井対馬守景吉・藤右衛門尉好秀父子のいずれかであろう(古代・中世No.四四四~四五三)。
写真66 太田氏房印判状写 武州文書
(国立公文書館内閣文庫蔵 埼玉県県史編さん室提供)
天正十六年(一五八八)八月十四日と同十七年八月十六日に、氏房は深井景吉・好秀父子に印判状を与え、まず深井氏に対し自分の所領内に植えている竹木を伐り他人に与えることを禁止している。ついで深井父子に山林を預け、毎年栗の実を採取し、苗木を植えて岩付城に用だてることになっているので、父子の者がこの山林に非法を行ってはならないと厳命している(古代・中世No.二四七・ニ四八)。後北条氏は、支城等の用材やその他の必需品を得るため各地の郷村内に直轄の山野を設定し、「立野(たての)」、「立林(たてばやし)」、「立山」と呼ばれていた。深井氏の私領内にもそれが設けられ、深井氏にその管理が委任されていた。このように、深井父子は太田氏房の家臣としてその領域支配の一端を担い、税の徴収等に活躍したのである。