北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

あいつぐ城普請(ふしん)
後北条氏は対豊臣戦に備えて領国の防衛体制を進めるために、小田原本城や各地の支城の普請を盛んに実施した。後北条氏が北武蔵一帯に普請役を課した文書は、天正十二年(一五八四)から十八年までの間に十八例も確認され、そのうち十四例までが城郭(じょうかく)普請に関するものである。その大部分は、豊臣秀吉との対立が特に深まった天正十四年から十六年にかけてのもので、秀吉の圧力に対する緊迫した北条氏政父子の対応がうかがえる(『県史通史編二』第四章第四節)。その大半は、太田氏房が「領」内の住民に岩付城等の普請を命じたものである。関係史料のうち、市域周辺に命じられたものをあげたのが表19である。全部、太田氏房が市域の西隣り、川島町域の領主と郷村住民に命じたもので計八点にも及んでいる。
表19 北本市域周辺の郷村に命じた太田氏房の城郭譜関係文書
番号 年 月 日 文書名 内 容 宛 所 現比定地 出 典 
(天正14) 2・6 印判状 岩付城、 大普請役先納 八林道祖土分  川島町 № 232 
(天正14) 2・6 印判状写 岩付城、 大普請役先納 井草細谷分 川島町 № 233 
(天正14) 6・11 印判状 岩付城、 郷内男子総動員三保谷郷道祖土図書助   川島町 № 234 
(天正15) 2・6 印判状 小田原城 道祖土図書助 川島町 № 235 
(天正15) 3・19 印判状写 岩付城へ材木運搬  井草細谷分 川島町 № 236 
(天正15)10・28 印判状写 岩付城、塀の割当  井草伊達分百姓中 川島町 『武卅文書』比企郡  
(天正16)1・ 6 印判状写 岩付城、10日間出役 井草本郷下いくさひき分、かくせん立川分  川島町 № 242 
(天正16)3・20 印判状 岩付城、留守普請  道祖土図書 川島町 № 243 

(出典は『市史古代・中世資料編』の資料番号を示す)

天正十四年二月六日、氏房は比企郡八林の道祖土満兼知行分および井草の細谷資満知行分の百姓に対し岩付城の普請を命じている。翌十五年分の大普請の人足分のうちから八林より一名、井草より五名を事前にこの年に徴発し、二月十一日より十日間の出役を国法による遅延規定を明示して強制した(古代・中世No.二三二・二三三)。後北条氏の領国では、大普請役は貫高に応じて各郷の出役人数が決まっているので、たとえ非常時でも恣意的(しいてき)な増徴はできず、後年度の夫役を先納させなければならなかった。従って、数年分の徴発を受けた農民の負担は大きかったが、後北条氏および氏房の権力にも一定の限界があった(藤木久志「戦国の村と城」『寿能城と戦国時代の大宮』)。
ついで氏房は同年六月十一日付で、八林に近接する三保谷郷の代官道祖土満兼に対し、十四日に岩付城中に郷村農民を集めて五日間にわたる普請をするよう命じている。郷内に居住する男子全員を出役させ、出頭しない農民が居ることがわかれば代官を解任すると厳命している。文意から各地の直籍領の農民を総動員して臨時的に行ったことがわかる。豊臣軍の来攻に備えて緊急に防備を固めるため、人数の決まっている大普請役では対応し切れなかったのであろう(古代・中世No.二三四)。
天正十五年二月六日、氏房は道祖土図書助に、小田原城の普請として三名で十日間の出役を命じ、人夫を差しだせば自身の出頭は免除すると報じている。人足は、氏房の中堅家臣福島出羽守と立河山城主のもとに集められ、関根石見守配下の百姓等、他郷の農民といっしょに遠く小田原城の普請にまでかり出されたのである。ここでも出役が遅れれば領主道祖土氏を重罪に処すると警告している(古代・中世No.二三五、内山文書)。
氏房が、同年十月に各地の郷村に命じた普請役の印判状は注目される。そのうちの一通は十月二十八日に比企郡井草の伊達(だて)房実知行分の百姓に命じたもので、この他、これより先の十月十八日に足立郡の太田窪(だいたくぼ)(浦和市)・芝(川口市周辺)の百姓に発令したものが残存している。それによると岩付城諸曲輪(くるわ)の塀が破損したため、諸郷の百姓に十一月五日に岩付城に集まり、奉行人の指示どおり修復工事をするよう命じたのである。そして日ごろから割り当てられたところが破損した際には修理をし、雑木を用いないように通告している。各地の郷村には、その分担する塀の範囲が井草・六間、太田窪・二間二尺八寸、芝« 一間三尺一寸二分と明記され、塀を区切って各郷に普請の範囲を分け、その恒常的な管理を行わせていたことがわかる。井草郷の指定範囲は他郷に比べて特に長く、重い負担を強いられていた(『武州文書』比企郡・足立郡、「内山文書」)。
なお、氏房は、同年三月十九日に、同じく井草の百姓に人足五人を出し、二日間で藤波山(上尾市藤波)より岩付城大曲輪まで籠材木を運搬するよう命じている。城内の防備に関する用材輸送とも思われ、このような形での夫役も課されていた(古代・中世No.二三六)。藤波山は市域の南部に近接しており、中世には石戸郷に属していたとも伝えられる(『新記』)。表19に示したように、市域周辺の農民は、天正十四年から同十六年までのわずか二年間に計八回もの夫役(ぶやく)を課され、大普請役の他、臨時の普請役、恒常的な城の管理等も厳命され、臨戦体制は住民には重い負担であった。

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