北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

農民の抵抗
このように、豊臣軍の来攻に備えて後北条氏や太田氏房は、城郭の普請、兵糧の徴収、軍役の強化、農兵の徴発等を通して防衛体制を固めていったが農民の負担も大きく、彼らは各地の領主に対する抵抗を強めていった。農民の抵抗は、訴訟によって年貢(ねんぐ)や諸役の減免をはかる佗言や、郷村を離脱する逃散(ちょうさん)・欠落(かけお)ち等があるが、天正末期には、市域周辺でもこうした欠落ちがみられるようになる。こうした形での抵抗はすでに天正初年ころより武蔵各地で進行し、後北条市は国法による帰還命令を出し厳しく抑圧している。各地の領主には、他領に逃散した農民を強制的に帰還させることはむずかしいので、後北条氏の全領国に適用される国法によって取締ったのである。
天正十八年(一五九〇)に、上田掃部助(かもんのすけ)の知行地比企郡戸森郷(川島町)の百姓深谷兵衛尉(ひょうえのじょう)が、年貢を払わずに近くの岩付領一本木宿(同)に移ったことがわかり、後北条氏に訴えがなされた。北条氏直は二月十四日にそれを認め、上田氏に、召返しは国法で決まっているので逃亡先の領主・代官に断って召還するよう指示し、もし従わない時は再度上訴するようにと伝達している(古代・中世No.ニ五二)。戸森郷は岩付領と松山領の交錯する境の地にあるが、逃亡先を「岩付領」と断っているところからこの時点では松山領に属していた。上田掃部助は松山城主上田憲定の家臣で、その一族であろう(『東松山市の歴史』上巻、第六章第十節)。岩付領と松山領に関することなので、支城主ではなく北条氏直より発令された。こうした個別的な逃散の他、郷内の農民が集団で欠落ちするより積極的な抵抗もあった。
岩付城主太田氏房は、同十八年三月二十日に、兵衛尉とその被官・名主・百姓に対し、兵衛尉といっしょに欠落した彼ら郷中の者の処分は行わないので、郷内に立ちかえり氏房が命じた普請や耕作を行うよう命じている(古代・中世No.二五三)。岩付城等の重い普請役に抵抗して百姓が郷中あけをしたのである。この事例は足立郡太田窪(浦和市)でひきおこされたものと考えられる(『新記』、他)。天正十八年に入ると豊臣秀吉と後北条氏の対立は決定的になり、諸大名に命じて関東出陣が開始され、太田氏房等は普請役の増強等、防備をより一層強化したものと思われる。それに抵抗して、年貢や夫役を忌避(きひ)する欠落ちが行われたのである。

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