北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城

名胡桃(なぐるみ)事件
天正十年(一五八二)六月の本能寺の変の後、北条氏政・氏直父子は徳川家康と織田信長の掌握していた武田氏旧領の支配権をめぐって争っていたが、同年十月に講和を結んだ。そして、甲斐・信濃は家康が、上野は後北条氏が領有し、信濃国上田城主真田(さなだ)昌幸が支配している上野国沼田領(群馬県沼田市周辺)は後北条氏が支配して 真田氏には家康より替え地を与えるという国分協定を結んでいる(藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』)。しかし昌幸は、領主としての自立化をはかるためこれを認めず、越後の上杉景勝等と連絡しながら後北条氏・徳川氏と戦った。その後、豊臣秀吉に臣従した徳川家康は、同十六年に入ると北条氏直に一族を上洛(じょうらく)させて秀吉の命に服するようにと強く要請した。そのため氏直は、同年八月に叔父北条氏規(うじのり)(伊豆国韮山城主)を派遣して秀吉と会見させている。氏規は秀吉に真田氏との沼田領問題が解決すれば、兄氏政も上洛すると報じた。
秀吉は同十七年に入ると、沼田領解決のため関東への介入を強め、北条氏政の近臣板部岡融成(江雪済)を上京させて折衝にあたった。秀吉は、沼田領のうち三分の二は後北条氏が、三分の一は真田氏が支配し、削減された真田領三分の二は徳川家康より替え地を与えるとの裁定を下した。ところが、この措置にもとづいて沼田城を接収した後北条氏の部将猪俣邦憲(鉢形城主北条氏邦の重臣)は、同年十月に真田領として認められた三分のーの中にある西北の名胡桃(なぐるみ)城(群馬県利根郡月夜野町)をも奪取した。真田昌幸の訴えを受けた秀吉は激怒し、北条氏直よりの釈明を受けつけず、ついに同年十一月二十四日氏直に宣戦を布告している(「北条文書」所収、豊臣秀吉朱印状、『群馬県史通史編三』第六章第五節)。こうして名胡桃問題は、秀吉の領土裁定に従わず私戦停止令に違反したとされ、その関東出陣を決定づけたのである。

写真68 名胡桃城跡 群馬県月夜野町

(埼玉県立博物館提供)

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