北本市史 通史編 古代・中世
第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領
第5節 豊臣秀吉の天下統一と岩付落城
忍城の攻防戦岩付領に接し市域の北方にある忍城は、天正十八年(一五九〇)七月六日に小田原城が開城して以後も秀吉への抵抗を続けていた。城主成田氏長が小田原城に籠城したため、城は成田氏一族の成田泰季・長親父子に率いられた城兵が守っていた。秀吉は六月の初めごろ、側近の石田三成に指揮させた豊臣軍に佐竹義宣・宇都宮国綱・結城晴朝・多賀谷重経・水谷勝俊等、北関東の反後北条系大名を配置し、二万余人で忍城を攻撃させている。それに対して、城内には約五〇〇人の侍・足軽の他三〇〇〇余人の雑兵(ぞうひょう)・百姓・町人・女子等がたてこもっていたとも伝えられる(「諸将感状下知状並諸士状写」所収文書、『吹上町史』第二章第四節)。城内に家臣の他、領民や婦女子が多数籠城していたことは岩付城にも見られ、彼らは農兵や人質として徴収された者、戦火を逃れて「領」内から避難してきた人々等であった(藤木久志「戦国の村と城」、他)。石田三成が忍城を包囲してまもない六月七日に、成田氏長の叔父泰季は七五歳の高齢で病没するが、その遺志は子息長親が継ぎ、石田三成に対抗したのである(「成田氏系図」『鴻巣市史資料編二』)。
忍城は自然の沼地を利用して築かれ、周囲を水田や湿地に囲まれて「浮城」とも呼ばれており、豊臣の大軍も容易に攻落することはできなかった。そのため、石田三成は城のまわりに堤を築いて水攻めにすることにした。それは利根川や荒川を利用して忍城の周囲に堤を築き、この堤から両河川の水を放流し城の一帯を水びたしにしようとするもので、わずか五日間の工期で現在の熊谷市・行田市・北足立郡吹上町に至る総延長約十四キロメートルにわたる「石田堤」が築かれている。せき止められた水は、六月十六日ごろ忍城に達したという(『吹上町史』、他)。
写真70 忍城鳥瞰図 (埼玉県立博物館所蔵)