北本市史 通史編 古代・中世

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第6章 後北条氏の武蔵進出と岩付領

第1節 太田氏の登場と岩付城

太田道灌の死と岩付太田氏
長尾景春の乱は太田道灌の尽力によって鎮圧され、武蔵・相模等の南関東地方における両上杉氏の支配権は再び回復した。それはひとえに道灌の活躍によって実現されたものであったが、その急成長は上杉氏から警戒されることになる。こうして道灌は、文明十八年(一四八六)七月二十八日に、主家扇谷上杉定正によって相模国糟屋(かすや)(神奈川県伊勢原市)の定正邸で暗殺された。関東管領山内上杉顕定が定正に道灌の反逆を伝え、暗にその討伐を進言したためという。その後太田氏は、扇谷上杉氏の重臣から一時的に排除されたのである。
道灌の死後、山内上杉顕定と扇谷上杉定正の抗争が開始された。この争乱は、長享元年(一四八七)十一月から永正(えいしょう)二年(一五〇五)まで十八年間続き、関東地方は本格的な戦国時代に突入していった。道灌の子息資康(すけやす)(江戸太田氏の祖)はただちに顕定に属して、比企郡須賀谷原(嵐山町)等で定正と戦っている。
このころ、道灌の養子資家が岩付城主になり周辺地域を領有した。その子孫は、資頼・資時(全鑑)・資正・氏資と五代にわたって存続し、岩付太田氏として知られる。太田資康と異なり資家の動向は不明であるが、扇谷上杉氏に従いながらしだいに勢力を拡大した模様である。市域も岩付太田氏の支配下に置かれた。

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