北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第2節 庶民の信仰

上足立郡年行事職大行院
室町時代における県下の本山派修験の動向は、文明十二年(一四八〇)七月二十七日、聖護院門跡が十玉坊を入東郡と多摩郡清戸(きよと)(東京都清瀬市)の年行事職に補任し、熊野参詣檀那職以下を知行させ(『武州文書』)、同十九年正月二十八日崎西郡の年行事職を安堵するなど十玉坊が中心になっている。永正十一年(一五一四)七月一日の尊能証状写(『武州文書』)をみると、鴻巣の大行院の前身と思われる大円坊が崎西の内の戸崎郷(騎西町戸崎)より下の地域の年行事に補任された。天文二十二年(一五五三)五月二十一日には聖護院門跡道増は二通の御教書を発し、大行院(鴻巣市南下谷)には上足立の伊勢熊野先達衆分檀那職を(『武州文書』)、玉林坊(浦和市中尾)には下足立の伊勢熊野先達衆分檀那職等を安堵している(「麥場文書」)。この二通の御教書を見ると、それぞれ入間の十玉坊が由緒を示して両者の違乱について糾問しているが、門跡は十玉坊の言い分を却下し、大行院と玉林坊の支配を認めている。この時は十玉坊の申請を却下しているが、室町時代の本県の本山修験でもっとも勢力があったのはこの十玉坊であった。
このように県内の本山派修験寺院は、室町時代は聖護院門跡からの年行事職の補任や安堵が中心であったが、戦国期に入ると在地の戦国領主の安堵状が目立ち、二重支配の状況を呈してくる。例え.は弘治二年(一五五六)三月五日太田資正は、先の天文二十二年五月二十一日の「聖護院門跡御教書」(古代・中世m 一七七)の内容を追認し、大行院に対して上足立三十三郷の伊勢熊野先達職衆分檀那等を(古代・中世No 一七八)、弘治二年十一月二十九日に玉林坊に対して下足立三十三郷衆分中壇那役について同様の安堵をしている(『武州文書』)。
資正が聖議院支配下にある年行事職の安堵を改めて行ったのは、本山派修験を自己の軍事統制下に置き、一円的領域支配を貫徹せんと指向したことによる。修験者が山野河海を自由に動き、各地の情報収集・伝達に欠くことのできない存在だったため保護したのである。
次の領主太田氏資は永禄八年(一五六五)二月二十日、父資正書状の内容を追認して大行院に上足立三十三郷の伊勢熊野先達職衆分檀那等を安堵し(古代・中世No一九六)、さらに翌九年十月二十一日、同様に玉林坊に下足立三十三郷の年行事職を安堵している(『武州文書』。また、小田原北条氏も元亀三年(一五七二)六月晦日(古代・中世Noニ一〇)と天正七年(一五七九)八月六日に聖護院門跡と太田氏資の前例を引継いで、大先達大行院に対し上足立三十三郷の伊勢熊野先達衆分の檀那職を安堵している(古代・中世No 二一ハ)。
これより先、天正七年七月二十六日、聖護院門跡道澄が足立郡大行院に上足立三十三郷の伊勢熊野先達衆分の檀那職を天文二十二年(一五五三)に引続いて再度安堵している。これは大行院と玉林院の間で、足立郡内の檀那支配の境目相論が起り、それに関係するものと推定される。
戦国期において関東本山派修験の中心的な役割を果したのは十玉坊に代った幸手の不動院(春日部市小淵)と玉滝坊(神奈川県小田原市)であった。この不動院頼長が、足立郡大行院に、同院配下の山伏が、年始の行を講じ、入峰時には同院の添状を受けるなど、すべて大行院の指示に従うこと、また峰入りについては御法度に従うべきことを伝えている(古代・中世No一二五)。応永年間(一三九四〜一四二八)以降から上足立三十三郷の伊勢熊野先達職等は大行院に、下足立三十三郷の同職は玉林院(浦和市中尾)にそれぞれ認められていたが、この上・下両郷の境をめぐって両者の間で争論が絶えなかった(年未詳九月十二日慶忠書状写)。そこで聖護院門跡の奉行人慶忠と不動院頼長が連署して大行院の上足立三十三郷の修験支配権を聖護院が認めたことを伝え、上・下の境目については大宮をもって境界とし、その争いについては、守護すなわち、両院の所在する岩付領の支配者である岩付城主の裁許に従うことを命じている。当時、足立郡上・下三十三郷両郷の境目争論がしばしばあったことは、これらの史料からも窺(うかが)い知ることができよう。天正十九年(一五九一)二月十八日聖護院門跡は御教書により、不動院と玉滝坊に対し、従来通り関東八州の修験中の支配を任せているので、徳川家康関東入国後もその体制は継続されたのである。

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