北本市史 通史編 古代・中世
第7章 北本周辺の中世村落
第2節 庶民の信仰
信仰と石造物図24 東光寺 年不詳十三仏種子板碑
市域の板碑は、貞永(じょうえい)二年(一二三三)銘を最古とし、永禄十口 (一五六七〜七〇)年銘を最新とするほぼ三三〇年間の三八六基が残っている。南北朝期までは鎌倉新仏教との係わりで理解した方が良い板碑が多い。板碑の主尊はキリーク(阿弥陀如来)が最も多い。阿弥陀如来は、宗派を越えた信仰対象であるために宗派を特定できないが、浄土教系の浸透に起因する割合が多いであろう。石戸宿の東光寺に建長(けんちょう)三年(一二五一)銘と伝える阿弥陀三尊板碑があり「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」の偈(げ)がある。偈から浄土真宗にょる造立の可能性が高いと説かれている。南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれているのは時宗による造立である。市域では深井・寿命院の元亨(げんこう)年(一三二一〜二四)銘板碑はじまり正中(しょうちゅう)年(一三二四〜二六)銘、延文(えんぶん)五年(一三六〇)銘、貞治(じょうじ)三年(一三六四)銘(古代・中世P三六一)の四基と年不詳一基と計五基の名号板碑がある。正中年銘の一基は書体が異なり不確実だが他の四基は時宗による造立である。深井の寿命院には造立年不詳だが題目板碑がある。今はほんの断片となってしまったが幅四〇センチ、往時の高さはニメートル近くある立派な板碑であったはずである。様式からは鎌倉時代中期の造立であり、日蓮宗による造立としては県内では早い造立例である。主尊がバク(釈迦如来)の板碑は、造立年によって二つのグループに分けられる。一つは明徳(めいとく)年(一三九〇〜九四)以前のグループであり、もう一つは天文(てんぶん)年(一五五二〜五五)以降のグループである。この二つのグループには一四〇年余のひらきがあり、市域では明瞭にニ時期に分割が可能である。前者は禅宗による造立の可能性が高い。以上は庶民の造立ではなく武士および土豪層による造立であるが、鎌倉新仏教との係わりで理解できる板碑でもある。
市内で最初に確認できる民間信仰は十三仏信仰である。本宿の多聞寺には寛正(かんしょう)六年(一四六五)銘の十三仏板碑がある。主尊はアーンク(胎蔵界(たいぞうかい)大日如来)で、「帰命月天子 本地大勢至 為度衆生故 普照四天下」の偈があり、月待信仰と習合している。その他に石戸宿の東光寺・中丸の遍照寺・高尾の阿弥陀堂に所在するが、いずれも造立年が不詳である。阿弥陀堂の十三仏は阿弥陀三尊のまわりに月輪形に十仏を配した板碑である。本来十三仏信仰は亡くなった人の命日に十三仏画の軸などを掛け、故人を偲(しの)ぶものである。近世でも数は少ないが十三仏を墓地に建てている。死者を追善するためであろう。板碑も同様の主旨で建てたものと理解する。近世の紙本十三仏画がかなり残されている。信仰は熱心に続いているが屋外に塔や石仏を建てる信仰はほとんど消失したと言えよう。
図25 寿命院 大永7年銘 阿弥陀三尊来迎図像板碑
次いで現れるのは念仏信仰である。下石戸下の小川柳瀬両家墓地の文明十五年(一四八三)銘の阿弥陀三尊板碑(古代・中世P三七八)と、深井の寿命院の大永七年(一五二七)銘の阿弥陀三尊来迎図像板碑である(古代・中世P三六〇)。文明十五年銘板碑には「念仏ロロ」、大永七年銘板碑には「念仏供養」と刻まれている。市域で唯一の図像板碑である。念仏信仰は近世に熱心に信仰され市域では現在も百万遍の講が続いているし、数珠だけが残っている地域もある。
最後に現れるのが庚申信仰である。寿命院の天文廿四年(一五五五)銘の二基、高尾の加藤家の永禄二年(一五五九)銘、高尾の妙音寺の永禄十口年(一五六七〜七〇)銘の四基である。いずれも「申待供養」と刻まれている。先に主尊バクの板碑を二つのグループに分けたが、天文年間(一五三二〜五五)以降はすべて庚申信仰による造立である。またほんの断片であるが廿一仏板碑が一基ある。これも庚申信仰による造立である。庚申待板碑は上尾市と鴻巣市にはなく、桶川市に一基あるだけで、市域の五基は濃密分布といえる。
東京都八王子市片倉の竜光寺の月待板碑に描かれた天蓋(てんがい)を「片倉式天蓋」と命名し、詳細に追求した織戸市郎は、板碑を伝播(でんば)したのは石工であると考察した(織戸市郎「民問信仰板碑の系譜(一)」『日本の石仏・二号』ー九七七)。また、東光寺の十三仏板碑に描かれた天蓋と同一様式の天蓋は、東光寺例を含めて県内に六基がある。直接東光寺のモデルとなったのは、東松山市上唐子(かみからこ)の共同墓地の年不詳月待板碑の可能性が高いが、ル—ツは最も古い比企郡都幾川村多武峯(とうのみね)慈眼坊の長禄(ちょうろく)五年(一四六一)銘の図像板碑である。月待の行事あるいは板碑造立にあたっては、慈眼坊と係わる修験者が加持祈祷(かじきとう)をおこなったと推察したことがある(下村克彦『埼玉考古』一九号 一九八一)。 板碑そのものの様式は石工が伝えることもあったが、信仰の教義や行事の諸式は、こうした修験者や遊行の聖(ひじり)が村むらへ伝道したのであろう。また、高尾の妙音寺年不詳板碑の天蓋は、片倉系につながる傍系の天蓋である。川越市は片倉系天蓋の分布域であり、さきの都幾川村あるいは東松山市といい、 荒川右岸地域との関連や二十一仏板碑のように越谷方面へ関連する板碑など、市域の板碑は周辺地域と深く関連しながら造立されたのである。
図26 深井薬師堂 暦応5年銘宝篋印塔基礎