北本市史 通史編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世

第7章 北本周辺の中世村落

第1節 村落と農民生活

鎌倉街道
中世には、市域に鎌倉から上野(こうずけ)国に抜ける鎌倉街道が通っていた。鎌倉街道とは江戸時代につけられた名称で、镰倉時代に幕府が各地に散在する地頭(じとう)・御家人等を鎌倉へ参集させるために整備した道路で、南北朝時代以降も鎌倉府があったため、その機能は存続していた。この街道は「上道」・「中道」を幹線道路とし、その他多くの脇街道からなっていた。「上道」は「武蔵路」とも呼ばれ、鎌倉と上信越地方を結ぶ道路で武蔵府中(東京都府中市)を通って埼玉県内に入り上野に通じている。また、「中道」は鎌倉から奥州(東北地方)に至る主要街道で鎌倉時代に「奥大道」とも呼ばれ、岩渕宿(東京都北区)から入間川(現在の荒川)を渡り、埼玉県東部地域を経て下総国古河(茨城県古河市)へ通じていた。
この二つの幹線道路をつなぐ道として羽根倉道がある。それは、「上道」の府中方面から「下道」に出て奥州に至る道路で、所沢より「上道」と分かれて北東に進み、新座市大和田・志木市宗岡(引又)を経て、浦和市羽根倉付近で入間川(現在の荒川)を渡り、与野・大宮・上尾(原市付近)を通過する。そして、菖蒲町中手城(南埼玉郡)を越え、加須市北部の大越付近で川口・岩槻方面から北上してきた「中道」と合流している。そして、この羽根倉道の支道として上尾から分かれて北上し、桶川・北本・鴻巣を経て上野に至る道路が想定されている。

写真75 石戸宿に残る伝鎌倉街道跡

市域の石戸宿にも鎌倉街道が通っており、それはこの羽根倉道の支道であろう。与野市本町・大宮市植水を経て、上尾市平方・畔吉・桶川市川田谷を通過し、市内に入り石戸宿に達したという。そして、小字横田市場より北上し、市内荒井の須賀神社、高尾の氷川神社付近を通って高尾の中井より鴻巣に出て、行田市を抜け上野(こうずけ)に達していたといわれる(『北本のむかしばなし』「鎌倉街道と石戸宿」)。
鎌倉街道は御家人が鎌倉とその居館との間を往復していたものであり、市内を通るこの道路は、在地領主石戸氏と鎌倉幕府の関係も推定されよう(本編第四章第二節)。石戸城もこの街道に沿って築城されたものと思われ、石戸宿の石戸城跡付近には鎌倉街道の町並が一部残されている。

<< 前のページに戻る