北本市史 通史編 古代・中世

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第7章 北本周辺の中世村落

第1節 村落と農民生活

河川の管理
市域の西部には、現在荒川が流れ、その流路は鴻巣市から市内・桶川市をぬけ、上尾市平方へと続いている。その流路は、おおむね足立郡と比企郡の境界をなし、市域と、比企郡川島町・吉見町との境をなしている。いつぼう、市の東部には、市内朝日地区と鴻巣市の境を赤堀川が流れている。

図23 市内の主な川・用水

注 数字の土地の高さ(写真集『雑木林のあるまち』より引用)

この二河川の間を併行していくつかの水路が市内を南北に縦断している(図23)。これらの水路は中世から現在地を流れていたのではなく近世以降の河川改修工事等の結果形成されてきたものである。
荒川は鎌倉街道等と各地で交差し、陸運と海運を結ぶ重要な交通路となっていた。また、中世の街道の多くは荒川を渡河しなければならず、その地は軍事上の要衝でもあり、経済的にも政治的にも重要な役割を担っていた(『荒川・人文I』第三章)。

写真79 石戸城より荒川を望む

荒川沿岸には多数の城館があり、市域石戸宿の堀ノ内館や石戸城もその一例である。これらの築城の狙いは石戸宿には荒川と鎌倉街道が通っており、陸運と水運を結ぶ商業交通路を確保し、領主支配の強化をはかろうとしたのであろう。特に石戸城は、眼下に荒川(旧和田吉野川)が流れている。戦国時代には、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣、岩付太田氏の居城岩付城と松山城を結ぶ道があり、その中間の荒川の渡河地点に石戸城が築かれていたのである。それは、松山方面からの敵の侵入を荒川の水際(みずぎわ)で規制するという軍事的役割をも担っていたであろう。
荒川は、多くの分水路があり水害を招いたので、領主や農民にとっては堤防築造等の管理も重要であった。それについては、第六章第四節に記したとおりである。

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