北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第3節 本宿と鴻巣宿

1 石戸宿から中山道

宿駅の機能
宿駅には三つの機能があり、一つは荷物の輸送、二つには休泊機能、三つには通信である。荷物を輸送することを江戸時代では継送(つぎおく)りまたは継立(つぎたて)ともいう。前宿から後宿へと荷物を継送ることで、たとえば大宮→上尾→桶川→鴻巣→熊谷というようにリレー方式を原則とした。特定の地域では、二宿が一緒になって前後宿へ継送る合宿(がっしゅく)や、上りまたは下りのみを継送る片継ぎなどがある。継送りは人足によるものと馬を利用する方法があり、この人足や馬の提供を伝馬役という。宿駅が負担する人と馬には一定数の限度が定められ、その分を「御定人馬」・「宿常備人馬」・「宿立人馬」・「宿人馬」などと呼んでいる。東海道のそれは、はじめ馬三六疋であったが、寛永年間(一六二四~四三)に人足一〇〇人・馬一〇〇疋となり、中山道でははじめ一〇人・二五疋と推定されるが、寛文五年(一六六五)に五〇人・五〇疋となった。しかし、木曽地方の一一宿は山間地であることを理由に二五人・二五疋と半数であった。
宿駅で負担することが義務づけられている御定人馬は、このように限度があったから、大名行列などの大通行には人足や馬が不足することになり、そうした場合には宿駅近隣の村から助郷と称して不足分を補うことになる。
宿駅で継送る荷物の駄賃(輸送料)は、一駄を本馬といい四〇貫目(約一五〇キログラム)までである。人一人が乗って荷物を付けることを乗掛(乗懸(のりかけ))といい、荷物は二〇貫目(約七五キログラム)までとし、人と荷を合わせれば約四〇貫目ぐらいになるから、駄賃は本馬と同様である。この荷物を乗尻という。人のみが乗ることを軽尻(からじり)(空尻)といい、五貫目(約一八・七五キログラム)までの荷物は許され、本馬の三分の二の駄賃である。荷物のみ乗せることを荷軽尻といい、二〇貫目までで、駄賃は本馬の三分の二である。人足が運ぶ重量は五貫目までとされ賃銭は本馬の半分である。したがって長持のように三〇貫目(約一一二・五キログラム)であれば、六人で運び、賃銭は本馬の三倍になる。人足は三〇貫目以上の荷は運ばなかった。
休泊機能とは旅行する人々が、一時の休息を求めて休憩することと、一夜の「やど」を取ることである。休息は一日の行程中で暫時足を休めることで、一般の旅客であれば茶店に腰を下ろしてお茶を喫しダンゴなどの菓子を食するであろうし、大名であれば本陣(ほんじん)や脇本陣(わきほんじん)を利用して休息することである。茶屋は宿場は勿論、宿場外の間の村にも見られるもので、市域の東間村などにもあった。一方、旅客の宿泊は宿場のみに限られて許され、それ以外の村では認められなかった。宿駅施設には本陣・脇本陣・旅籠屋があり、旅籠屋はさらに平(ひら)旅籠と飯盛(めしもり)旅籠に区分される。本陣とは元来、大名の居る場所をさすが、宿場での本陣は門構えや玄関が設けられるなど最も格式が高く、いわゆる高級旅館ともいうべきもので大名はじめ武士や公家などの上流階級が主に利用した。脇本陣は本陣に次ぐ設備を持ち、本陣が使用されている場合などはその補助的役割を果たした。一般の旅客の利用する宿が旅籠屋で、飯盛(飯売)女をおかない平旅籠と、飯盛女を置く飯盛旅籠とがあった。中山道の旅籠屋に飯盛女が置かれるようになるのは元禄年間(一六八八~一七〇四)ころからで、やがて宿場内に飯盛女が多くなると、享保三年(一七一八)には旅籠屋一軒につき二人までと制限された。

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