北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

3 慶長~寛永期の検地

下石戸村の検地
一方、下石戸村の例(近世№七三)では、筆頭の総左衛門がー〇町八畝三歩(田八反五畝四歩、畑九町二反二畝ニニ歩)の田畑と屋敷地七畝一四歩を所有し、内七町歩余が分付地である。二番目は松野で九町四反ーー歩(田三町四反ー畝二四歩、畑五町九反八畝一七歩)の田畑を所有しているが、その全てが分付地となっている。三番目は玄蕃(げんば)で六町九反九畝九歩(田二町八反五畝ー〇歩、畑四町三反一畝二九歩)の田畑と屋敷地一反四畝一三歩(二筆)を所有し、内五町歩余が分付地で、逆に一町歩余の被分付地をもっており、いずれもかなりの部分を分付地としていることがわかる。特に松野については、屋敷地も所有していないことから、おそらく仕官の道を選び在地性を失ってしまったものと考えられるが、或いは、屋敷地を持っていないのではなく、一種の特権として屋敷地が年貢課役の対象から免除されていたとも考えられる。しかし、これだけで即断することはできない。その上位三人の持高を合計すると二六町四反七畝二三歩となり全耕地面積の二三・五パーセント、同一〇人では五二町ーー歩で同四六・二パーセントとなり、荒井村と同じ傾向を示している。さらに、有力農民の中に武士名(雅楽助(うたのすけ)・織部・玄番(げんば)・隼人(はやと)・将監・帯刀・大蔵など)や苗字を持つ者が多いことなどを考えると、この段階ではまだ農民層の分解があまり進んでおらず、中世的大土地所有形態が残っていたと考えることができる。

<< 前のページに戻る