北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

5 享保以降の検地

新田開発の進行と限界

一 元和六年 (一六二〇)申ノ年御水帳 四冊(内一冊は田方御水帳) ①
一 寛文七年 (一六六七)未年御水帳 五冊(内二冊は書直し帳、但し上書なし) ②
一 寛永十年 (一六三三)酉年御水帳 壱冊 ③
一 寛永五年 (一六二八)辰ノ年不作改帳 壱冊 ④
一 子 (不 詳)九月十二日御改帳 壱冊 ⑤
一 宝永五年 (一七〇八)子ノ御改御水帳 壱冊 ⑥
一 享保三年 (一七一八)戌七月御改御水帳 壱冊 ⑦
一 享保十二年 (一七二七)未御改御水帳 壱冊 ⑧
惣数合拾五冊也
右の通、田畑御水帳両人立会平兵衛方へ預け置申候、何時成共御用次第相返し申すべく候、念の為、此くの如くに御座候、以上
享保十四年酉十月十二日 斉藤太左衛門
矢部平兵衛
小泉村七右衛門
伊右衛門
(矢部洋蔵家六九九)
この覚書の差出人である斉藤太左衛門は荒井村枝郷北袋の名主であり、矢部平兵衛は本村(荒井村)の名主である。そして、この資料は、小泉村(上尾市)の七右衛門・伊右衛門の両名を立会人として、太左衛門の手元にある検地帳を、一時平兵衛方へ預けたときの一札である。これが、どういう理由によるものかは不明であるが、これだけの検地帳が太左衛門の手元にあったのは事実である。この内①・②については前掲の通りであるが、③~⑧については新田検地帳であり、面積等は不明であるが、盛んに山野の開発が進められたという証左でもある。特に⑥~⑧については元禄以降の開発である。また、矢部家には、元和九年(一六二三ー二町五反余)・慶安五年(一六五二ー二反余)・享保十二年(一七二七ー四反余)の荒井村と、元禄十一年(一六九八)の下石戸上村(二町七反余)・同村横田下野(二町余)などの新田検地帳がある。これらの結果、市域の村むらにおいて慶安『武蔵田園簿』から元禄『元禄郷帳』にかけて、二四五石余の増加があり、そのうち石戸領五か村で一七五石余(七一・六パーセント)を占めている。
このような開発の進行により、村内の秣場がますます不足する一方で、新田畑の分まで下草の需要が増すと、入会秣場の用益をめぐって村むらや百姓相互の間に対立が生まれ「出入り」が頻発するようになる。その一つが下石戸上村・下石戸下村と荒井村・高尾村・小松原村の間で起こった元禄の秣場論争である。この争いは、元禄十年(一六九七)に裁許状(近世№五六)が出され「惣て、野内に新開発一切致すべからず」と、以後の新開発を禁止している。これは、当時の農業生産段階においては、秣場は不可欠(水田の刈敷(かりしき)・飼葉(かいば)厩肥(きゅうひ)・青灰などの供給源である)であり、その意味で新田開発もすでに限界に達したことを意味している。
また、前述のように、荒井村をはじめ市域の村むらにおける農業経営は、近世の中ごろ(十七世紀~十八世紀初めごろ)までを境に、傍系親族や譜代下人を抱えた比較的規模の大きい経営から、夫婦単位の小家族で不足労働力は年季奉公人を雇って補う小規模な経営に変遷を遂げた。それにともなって、戸数も表19のように増加の一途をたどり、史料的には、封建的小農民といわれる「小百姓」・「小前百姓」の登場となり、そのことを裏づけている。そして、その後戸数は安定し、江戸時代を通じてほとんど増加が見られなくなるが、その背景には分家の取立も限界にきたことがあげられる。つまり、相次ぐ分家の取立は経営規模の零細化・農民の窮乏化をもたらし、ひいては没落の危険性をも内包しており「たわけ」(田分け)のことばの生まれる所以(ゆえん)であろう。加えて、商品貨幣経済の発達(浸透)と年貢の増徴は、そのような動きにいっそう拍車をかけることになるのである。そして、膨大な量の質地証文の存在は、それらの結果、農民層が分解していく過程を示すものと考えられる。
表19 荒川村における戸数の推移
年 号 戸数 備 考 典 拠 
元和6年(1620) 38 検地帳(近世No71) 
寛文11年(1671) 66 人別御改帳(矢部1326) 
延宝3年(1675) 72 
26 

追加筆(内、抱9)  計98 
人別御改帳(矢部 1327・1328) 
元禄7年(1694) 109 桶川町大助御証文写 (矢部 1110) 
宝暦12年(1762) 135 人別御改帳 
寛政4年(1792) 125 +α(寺社)人別御改帳(矢部 1354) 
明治9年(1876) 131 武蔵国郡村誌P123 

注 表中典拠欄の矢部は矢部洋蔵家を示す    (『検知帳』他より作成)


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