北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

5 享保以降の検地

発言力を強める有力農民
一方 このような封建小農民の増加の中で、彼らは次第に発言力を強め、村内における有力農民を中心とした従来の支配体制に大きな波紋を投げかけることになるのである。たとえば、元禄三年(一六九〇)には、荒井村において新田組頭杢左衛門が他の九名とともに、名主の年貢割付を不当として訴訟をおこしている。この荒井新田がいつごろ開発されたか不明であるが、延宝七年(一六七九)の文書に下吉見領内新田村々として三六か村があげられ、荒井新田はその中の一つで高七五石である。その荒井新田で、名主一家の持分ニ町八反余が諸役免になっていることに対して、組頭を含むー〇名の者がその免除は不当であるとして割付に捺印を拒否したのである。この訴訟は二度目であるが、この時は仲裁が入り、次のように落着している(矢部洋蔵家一〇九七)。
つまり、名主持高の内の六反余を諸役免とし、残りは百姓並となり、名主給分としては、従来は永一〇〇文に付四文であったが、一反に付永七文と改めた。もっとも、これは屋敷地ー反=永一六二文として計算してみると、百姓側にとって決して有利とはいえない。しかし、諸役の負担は、名主一家にとっては以前と比べ大きな負担だろうと思われる。ともかく、この結果、他の新田の場合と同等になり、ここにも小農の発言力の成長をみることができる。さらに、枝郷百姓を本村百姓並にする動き(矢部洋蔵家ーー〇八)は元禄六年(一六九三)であって、これは延宝期以降の一般本百姓の旧村落支配体制に対する最終的な否定であった。新しい組頭は、単なる五人組の頭としての存在から抜け出て、「御年貢諸夫銭割立会いのため、村方相談にて申し付け候」(矢部洋蔵家 二四二八)というように、名主の特権であった徴租代行権の中の重要な部分である年貢割付け(割当て)を監視する役割を持つことになり、史料上では、ー〇人の組頭は、元禄ころになってから出てくる。そして、享保以降の「百姓代」の登場となるのである。この一〇人の組頭の中には旧特権層もいるが、このような村内の指導層の変化は、相対的に特権を失っていく名主役が、やがて輪番制や入札(いれふだ)制へとかわっていく契機になるのである。たとえば、荒井村と同じ支配下にある小泉村(上尾市)では、名主・組頭とも入札制になっている(矢部洋蔵家 九五九前文)。
そして、享保十八年(一七三三)には藤左衛門という小百姓が名主役を落札したが、飛脚代や滞納の際の役人の出張費等が立替えられず、近年の惣百姓の年貢未進や「借り金」の増加に加え、名主の足を引つ張る者もいて村方は混乱に陥った。このため、たいへん難儀しているので、名主に非協力な農民を召出して、出銭等滞りなく差出すように命じてほしいと領主に訴える事件もおこっている(矢部洋蔵家 九五九)。しかし、荒井村名主家は、その一族から「地頭家来」を出すことによって領主権力と結びつき幕末までその地位を維持し続けていった。
また、成長をとげた封建小農民たちは、自分たちの生活を守るため名主に限らず幕府や領主に対して年貢の減免訴訟に立ち上がっていく。正徳元年(一七ーー)・同二年・同五年の訴訟は、「大小の百姓共段々困窮仕り候処に、当拾九年以前(元禄七年・一六九四)より中仙道鴻巣町へ御伝馬大分出し(荒井村の助郷高は、村高と同額の三〇〇石であったが、嘆願の結果、正徳四年から一六〇石に減免された)……… 」たことや、「冰損(ひょうそん)(雹害(ひょうがい))」のためがその理由であった(矢部洋蔵家一ニ五六)。しかし、地頭牧野氏(五〇〇石で甲府勤番)にとっても物価高騰の中で困窮が募り、年貢を担保に高利貸商人から借金しているような状況にあり、減免基準も厳しくせざるを得なかった。ちなみに、 正徳四年(一七一四)には、荒井村の年貢は全て近江屋市郎兵衛・大谷弥右衛門の両人が取扱うことになり(矢部洋蔵家一二六九)、その後、享保四年(一七ー九)には元に復しているが、そうしたことにも領主の窮状を窺(うかが)い知ることができる。

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