北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第4節 検地の実施

5 享保以降の検地

双徳寺座配争論
このような状況下でおこった事件が、享保十二年(一七二七)六月十九日の「座配争論」である。荒井村双徳寺(荒井村の百姓の多くは川田谷村泉福寺が旦那寺で、双徳寺はその末寺)に住職の「入院祝儀」があり、その席上、座席の順位について争いがおこった。名主矢部平兵衛、枝郷北袋名主斎藤太左衛門、組頭新井八郎兵衛の順に座っていたところ、組頭福島藤右衛門が八郎兵衛の上座に入ろうとしたことから、互いに家格が上であることを主張し口論となった。争いは、甲府勤番である領主牧野助三郎まで訴えて、翌年になって落着した。
八郎兵衛の主張は、「私共儀、新井村草分けの百姓に御座候故、在名氏にて罷在候、先祖新井村を取立、則ち氏名を村名に写し、これに依り先祖をば新井隼人と申し、段々只今まで六代相続申し候、双徳寺の儀も先祖取立………古来より年寄役代々勤め来たり候………福嶋氏の者は、其以後の者にて、私共より末座仕るべき筈の格式、古来より定法相極り候」(矢部洋蔵家 二四六六)ということであった。
これに対し藤右衛門の主張は、「拙者共儀、所草切の百姓にて往古より上座仕り候処に………古例に背き、八郎兵衛上座仕るべき由………高尾村平右衛門に荒井村越石組頭役申しつけ候意趣は、近村にて荒井村田畑越石に大分所持仕り候に付、御年貢諸夫銭割立会いのため村方相談にて申しつけ候………平右衛門高尾村百姓に御座候に付、組頭役只今は取上げ、出百姓角右衛門に申しつけ、その以後杢右衛門相務め、只今は八郎兵衛組頭役相務め、高尾村平右衛門儀荒井村荒井氏在名と申す儀格別の偽りに御座候」(矢部洋蔵家 二四二八)という。
この両者の主張に対して、組頭新井喜四郎は、今まで「百姓しきの事」だから黙っていたが、先祖のことをいうのなら、私共先祖新井帯刀は天正年中より百姓で、帯刀娘は名主平兵衛の先祖雅楽助の妻になっており、作左衛門娘は平兵衛伯父次郎兵衛の妻、十(重)左衛門の妻は平兵衛の娘であり、このように、数代に渡って縁組が続いているのは「古来の者にて御座候故」である。また、八郎兵衛は他村出身であるので、客分として上座させているにすぎず、藤右衛門も前々より拙者共より下座の者であり、こうなった以上どちらも上座を許さないといい出した(矢部洋蔵家二四三〇)。
名主平兵衛は、領主からの質問に座配の先例をあげて返答している。即ち、与惣右衛門(藤右衛門訴状に署名)、杢左衛門(八郎兵衛親と杢左衛門親と関係があったらしい、両者とも新田組頭)、藤右衛門、名主一家名代新八等が上座したことがある。そして、八郎兵衛家元は高尾村平右衛門、藤右衛門家元は荒井村佐五右衛門、喜四郎家元は荒井村作左衛門であって、荒井村の「草切(草分け)」は、拙者平兵衛先祖雅楽助と太左衛門先祖織部と利右衛門という藤右衛門の屋敷主であったものの三人であり、八郎兵衛のいっていることは偽りである(矢部洋蔵家 二四二五)と。
翌年の春になって、系図を提出させるなど詳細に検討した上で領主は決裁した。その結果は、三軒ともそれなりの理由があるから、名主家筋の者は従来通りにして、その次には三軒の中の年長者の順に座るということであった(矢部洋蔵家 二四六八)。この争論の中で、八郎兵衛は、最初は「在名の氏」とか分村の時より「年寄役」をしていたとか主張したが、「口上のみにて書物の証拠は一切御座無く」さらに、水帳を見ても先祖隼人に屋敷がなく、その子将監にいたっては荒井村には全然見当たらず、結局、領主に提出した系図でも自ら「高尾村分」としてしまっている。また、藤右衛門についても「利右衛門地面買請候由緒ばかりにて、草切百姓と申儀は立ち難く候」ということで、両者ともに争論の途中で実証出来なくなってしまったのである。
八郎兵衛は「草切」でないのを認め、この争論では敗訴であった。しかし、このことは旧来の村の指導層に動揺を与え、名主一家の不和を、結果として成り上がり者、他所者の実力を示したことになる。
名主平兵衛は、八郎兵衛に落着後和談を申し入れた名主一家新八・甚右衛門(平右衛門・八郎兵衛から仲介を頼まれた)と親類付き合いをしないといい、新八が「内証にて相済候事」を取持つから、今後取り上げないでくれと領主に訴えている。ところが、百姓達は新八・甚右衛門にのみ迷惑がかかるのは不当だといって、ついには、名主家に出入りしないとまでいっているのをみると、名主の権力の低下は著しいものがあったと思われる。この享保十三年(一七二八)の暮に、名主名代孫八が領主に調停を願っている。その内容はわからないが、翌十四年には一族から「地頭家来」が登場しているのをみると、封建領主と密接に結びつき、自己の村内での特権的な地位を維持しようとしたのであろう。一方の八郎兵衛は、村内での新しい組頭として、本百姓の支持があった。座配争論はこのような動きの一端を示したものである。
さて、本項では、元禄期以降の封建小農民の成長を中心に述べてきた。前述のように、近世本百姓が一般的に成立する時期を延宝・元禄期とするのであるが、一方では、貨幣経済の発達による物価の騰貴や人口の増加に伴って新田開発もある程度限界に達した時期でもある。したがって、三富新田(三芳町および所沢市の一部)に代表されるような、一部の台地の大規模開発を除き、近世初頭のような幕府・代官による大規模な開発は陰をひそめ、領主による堤外地の秣場などを中心とした小規模開発が中心となり、検地も一段落する時期である。そのような中で、小農の自立によって本百姓を中心とする近世村落体制ができあがったのである。その結果、小農の発言が「百姓代」という形をとって、入会権の問題などのときに出てくるのである。名主給分にしても、年貢割付けの争いにしても、それは、ある意味で、最後的な村内旧支配層との対決といえる。このような動きは、江戸周辺では元禄・享保期に多くみられ、それは、享保の改革の実施と無縁ではないと思われる。

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