北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第2節 市域の知行割り

1 牧野氏と石戸領

石戸領
石戸領ニ一か村の領主として牧野氏が君臨するようになったのは、先に触れたように家康の関東入国による家臣の知行割、配置による。次の書状は近世北本の始まりを告げる重要な文書である。
御知行書立
一 あせおし
一 領 家 一 こしきや 此内に小林村
一 ふちなみ こひつミ 一 ひてや 一 河田や
一 石戸八満原(幡力)そうしき 一 まむろ さか下
合五千石 八ケ村
右の分百姓能々御せんさくニて御所務可有之候、来年御縄打の上不足ニて候ハゝ足可申候、あまり候ハゝ御返し
可被成者也、仍て如件
  天正十八庚寅年九月七日 伊奈熊蔵 印判 居判
      牧野半右衛門(康成)殿

(『市史近世』№一より引用)


図3 牧野家の知行書立にある地名(天正18年)

(『市史近世』№1より作成)

迅速さを要求された家康の知行割は、このようにまず知行書立を交付し領地髙を定め、その後の検地によって「不足にて候ハゝ足可申候、あまり候ハゝ御返し可被成者也」と領地の増減を行っている。この書立は家康の命をうけて天正十八年(一五九〇)九月七日に関東代官頭の伊奈熊蔵忠次が牧野康成に発したもので、この書立と同一形式のものが忍城主松平又八家忠にも与えられている(島原市 片山仙定家蔵)。
ここに出てくる地名を現行行政区域に位置づけてみると図3の通りで、高崎線西側の北は鴻巣市滝馬室から南は上尾市小敷谷までの荒川に沿う台地上の村々で、南北およそ一〇キロメートル、東西およそ二~三キロメートルに及ぶ広範な地域である。
家康が関東入国に際してとった家臣団の配置と知行割については既述したとおりであり、概括的にいうならば、中級家臣の知行地が江戸から一〇里(四〇キロメートル)というほぼ一夜泊りの地域に多く配されたという一般原則に当てはまっているが、さらにその理由を求めるならば、この地域が戦国時代から戦略上の拠点となっていたこともかかわっているといえよう。石戸領五〇〇〇石の地域内には左の三城館跡がある。
石戸城(北本市石戸宿六丁目)
三ツ木城(桶川市大字川田谷字城山一二六七)
武城館跡(同 右 五八一九)
とくに石戸城は、戦国時代には大宮台地北部の重要な戦略拠点であり、本書の古代・中世編第六章第一節以下にも詳述されている通りである。一例をあげれば永禄年中(一五五八~七〇)松山城を防備する上杉憲勝(うえすぎのりかつ)とこれを支援する岩槻城主太田資正(おおたすけまさ)連合軍に対し小田原城主北条氏康(ほうじょううじやす)とこれを支援する武田信玄(たけだしんげん)の勢力が松山城を包囲したが(松山合戦)、太田資正の要請で来援にかけつけた上杉謙信は永禄六年(一五六三)石戸に着陣している(『県史通史編二』P五〇五)。
三ツ木城跡と武城館跡は、ともに桶川市大字川田谷にあり、三ッ木城跡は『新記』にも記載されていて、『旧県史』では、堀や土塁の形態から戦国期の築城とみている。武城館跡は埼玉県が昭和五十八年から六十二年にわたって実施した県内の「中世城館跡調査」によって確認された城館で、堀や土塁の形状等からこれも中世築城のものと考えられている。以上のようなことからこの地一帯が古くから戦略上の重要拠点として武将の着目するところであったといえる。
ところで、『新記』に登載してある石戸領を所在市域ごとに整理すると表1の通りである。
表1 石戸領村名領主一覧
村 名 領 分 所在市 
石戸宿村附持添新田 石戸領20村の本郷打入当初の領主
 牧野康成 
北本市 
下石戸上村同 同 同 
下石戸下村同 同 同 
高尾村 同 镰倉右大将の臣石戸某の采地
鎌倉浄泉寺領
太田資家の領分
  同 
同 
荒井村 同 同 同 
荒井村枝郷 北袋村 同 同 
滝馬室村古は馬室郷 同 鴻巣市 
原馬室村  同 同 同 
原馬室枝郷 小松原 同 同 
上日出谷村 同 桶川市 
下日出谷村 同 同 
川田谷村 附持添新田 牧野氏陣屋
  同 
同 
川田谷村枝郷 樋詰村 同 同 
菅原新田 同 同 
領家村 同 上尾市 
藤浪村 同 同 
藤浪村枝郷 古泉村 同 同 
中分村 同 同 
畦吉村 同 同 
小敷谷村 同 同 
小敷谷村村の内 小林村 同 同 

(『新編武蔵風土記稿』より作成)


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