北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第2節 市域の知行割り

1 牧野氏と石戸領

茶屋跡
正保年中改定図により石戸領を概観すると、荒川に沿う台地の西縁を平方・畦吉(あぜよし)・川田谷から石戸に古道が通じ、ここで道は二つに分かれ、一つは下石戸を経て本鴻巣(本宿)で中山道に合流する。もう一本は荒井・高尾を経て中山道に通じる。この道路には中山道同様一里塚が設置してあることが読みとれる。このことからこの道路は古くから重要な道路として機能していたことが分かる。真偽のほどは不明であるが、古くは鎌倉道と呼ばれているので、戦国武将の軍役道路としても使用されたものであろう。当時石戸宿は「石戸町」と呼ばれ「御茶屋」が設けられていた(『新記』)。
鴻巣宿に家康はじめ秀忠・家光らが鷹狩に幾度となく訪れたことは諸晝に記録されており、昭和七年(一九三二)に刊行された『鴻巣町史』でも詳述している(同町史P二〇)。このことはさらに後述するとして、もう一つ注目すべきことは、国立歴史民俗博物館所蔵の寛永年間に描かれた有名な「江戸図屏風」に鴻巣御殿の図が鴻巣の地名入りで描かれていることである。鴻巣方面への将軍の鷹狩が幕閣間のみならず広く知られていたことの証左であろう。林羅山の『丙辰記行』に
名に負ふ武蔵野は月の入る可き山もなしといへば、まことにそくばくの蒼奔(そうもう)にすぎて此国の稲毛(いなげ)、葛西(かさい)、越谷(こしがや)、岩槻(いわつき)、 河越(かわごえ)、鴻巣、忍(おし)などは皆武蔵野の内にて侍る、いずれも猟場なれば毎年爰(ここ)に成らせ給ふ
とあるのをみてもわかるように、当時の武蔵野はいたるところ草木の生い茂る猟場といっても過言ではなかった。家康は天正十八年(一五九〇)関東に入国するや、譜代(ふだい)の臣や親藩(しんばん)を巧みに配して領国の経営に腐心(ふしん)したが、なお外様(とざま)大名や北条氏遣臣らの動静と、領国内の民心、民政をひそかに探るため放鷹(ほうよう)に名をかりて各地に遊猟した。入国後三年目の文禄二年(一五九三)二月には、牧野讃岐守康成(まきのさぬきのかみやすしげ)・伊奈筑後守忠政・伊奈兵衛尉忠家らを供奉し鴻巣へ来たのを初回として、寛永八年(一六三一)までの四〇年間にわたって二代三代の将軍が相次いで来鴻している(『徳川実紀』)。勝願寺は家康の帰依が篤かった寺院であるから、来鴻の折に立ち寄ったことは想像に難くないが、この時休宿に当てたのは、正保国図に載っている御殿で、鴻巣七騎の一郷士小池長門守の居宅に建てられたものである。『新記』は「小田原城御陣の事終りし後、御鷹狩として忍城中へ御成の時、先祖(小池)隼人助御迎にまかり出て、御案内をなせしにそのとき居宅御旅館となり……中略……それより後たびたびこの辺へ御遊猟あり、日光御社参還御のときも御旅館となりしことあり」と伝えている。開幕当初はいまだ街道宿場も未整備であったから御殿が後の本陣の役割を果たしていた。ところでこうした御殿は中山道筋では蕨や浦和・上尾にもあった。
家康が来鴻の折に石戸宿方面に足をのばしたときや、あるいは江戸・川越からの途中の休泊所が石戸宿の「御茶屋」であった。正保国図では石戸領の荒川に沿う高尾から平方にいたる一帯は深々とした平地林におおわれていて遊猟には適地であったことがうかがえる。この平地林を含む広大な知行地を家康から拝領した康成が、主君を招き遊猟をしたときの休憩所が御茶屋であった。牧野康成の家譜(『寛政重修諸家譜』)の中に「武蔵国足立郡石戸にをいて采地(さいち)五千石をたまひ、のち忍、川越等に放鷹(ほうよう)のとき、しばしばこの所にやすらはせたまひ、御膳等を献ず」(近世№八)と記されている。この茶屋の置かれたところは「御殿稲荷」として、平成の今の世にも伝承されている。

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