北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第2節 市域の知行割り

2 北本市域の領主

牧野氏

図4 分間懐宝御江戸絵図

(平凡社太陽コレクションより作成)

石戸領二一か村に五〇〇〇石の知行地を与えられていた牧野氏の祖先は、代々讃岐国に住んでいたが、応永年中(一三九四~一四二八)細川氏にしたがって三河国に移り、賽飯(ほい)郡牧野村に住んだことから牧野氏を名乗るようになったという。永禄七年(一五六四)家康が三河国吉田城外で今川氏真と合戦したとき、牧野の一族は今川氏に従って戦った。このとき康成は家康麾下(きか)の本多忠勝と戦った。「忠勝と力戦し、ともに創(きず)をかうぶりしかば、やがて鎗(やり)をすててひきくんでこれをうたむとす。康成このとき御麾下にしたがふべきの志ありしかば、ひそかにそのことを忠勝につげて、たがひに引退く」(近世№八)これが機縁となって、翌八年康成は父定成とともに家康に帰属し、以後各地の合戦に出陣し戦功を重ねた。天正十四年(一五八六)家康が「豊臣大閤と御和睦ありて、洛にのぼらせたまふのとき、諸将と同じく扈従(こじゆう)す、のちおほせによりて本多弥八郎正信、大久保新十郎忠隣、阿部善九郎正勝とおなじく申次の役をつとむ」(同前)申次の役とは、将軍に御所に参上した者の名や用件などを取り次ぐ役であるから、将軍の信任が厚くなければ任命されない役である。本多正信や大久保忠隣などのように古くからの譜代の臣と並んで重用された康成は、非凡な才能と家康の厚い信頼があったものと思われる。「その後御諱の字(即ち家康の康)をたまはり、康成(やすしげ)にあらたむ」(同前)天正十八年(一五九〇)家康の関東入国とともに、石戸領五〇〇〇石の領主となったことは既述の通りである。慶長元年(一五九六)には、従五位下讃岐守に叙任(じょにん)された。康成の忠誠は本多忠勝・榊原康政と並び、三人常に家康へ神妙に仕えたことを賞せられたという(同前)。
慶長四年(一五九九)五二歳で京都で没すると、信成が一五歳で家督を継いだ。翌五年関ヶ原の戦いのとき信成は家康に従って出陣した。その後大番頭、御小姓組番頭、御書院番頭、大坂の陣へ出陣した。その後加増二度におよび寛永十年(一六三三)には一万一〇〇〇石領した。同十八年家綱が誕生すると御かしづきとなった。正保元年(一六四四)には下総国関宿城主となって一万七〇〇〇石を領し、石戸領五〇〇〇石は嫡男の親成が領するところとなった。親成は正保四年、父信成の致仕により家督を嗣ぎ、信成晩年の正保四年には石戸の地五〇〇〇石を「隠栖(いんせい)の料」として賜った。信成はまた、家康・秀忠・家光の三代にわたって忠勤をはげみ、三代の将軍が忍(行田市)や河越(川越市)に放鷹(ほうよう)のおりには、しばしば将軍を石戸に案内し茶屋に休憩の席を設けた。

写真1 牧野氏墓地 鴻巣市勝願寺

(鴻巣市史編さん室提供)

『鴻巣町史』P二〇によると、勝願寺は文禄元年(一五九二)家康の命により牧野家の檀那寺となったというが、信成は慶長十七年(一六一ニ)十二月二十六日に勝願寺の西側逆川の荒畑五町歩を同寺境内のうちへ寄贈している(『鴻巣市話』)。慶安三年(一六五〇)信成が七三歳で没すると勝願寺に葬られた。この後勝願寺は代々牧野家の葬地となった。
正保四年(一六四七)に信成の跡を継いだ親成は亡父の跡式を弟達に配分し八太夫尹成(はちだいうただしげ)に二〇〇〇石、太郎左衛門永成と兵部成房直成にそれぞれ一五〇〇石を分け与えている。以後この三人の子孫が石戸領の領主として幕末まで支配することになった。親成は若年から江戸城に出仕し、承応二年(一六五三)には内衛を司る御書院番頭を命ぜられ、将軍の出向に当っては御駕籠(かご)の前後を守る重要な警備を勤めた。翌年には河内国高安郡のうち一万石を、また明暦二年(一六五六)には二万二六〇〇石を加増され合せて三万二六〇〇石、寛文八年(一六六八)にはさらに二四〇〇石を加えられ、丹波国田辺(京都府舞鶴市)に移され三万五〇〇〇石を領し、命により築城、以後幕末まで子孫が代々城主として君臨した。
尹成は石戸宿・下石戸下・下石戸上の三村の知行主を兼ね、他村と合わせて二〇〇〇石を賜った。尹成の系統は次の通りである。
名前生年家督相続年
初代牧野八太夫尹成慶長十年(一六〇五)慶安三年(一六五〇)
二代牧野八太夫貴成明暦二年(一六五六)天和二年(一六八二)
三代牧野八太夫為成元禄十一年(一六九八)享保十五年(一七三〇)
四代牧野大内蔵義成享保十九年(一七三四)宝暦六年(一七五六)
五代牧野弾正議成宝暦十三年(一七六三)寛政二年(一七九〇)
六代牧野左近中務贇(よし)成寛政五年(一七九三)文化六年(一八〇九)
七代牧野八太夫寿(なが)成文化九年(一八一二)天保六年(一八三五)
八代牧野大内蔵時(よし)成天保五年(一八三四)嘉永四年(一八五一)
九代牧野大内蔵章(あき)成天保八年(一八三七)慶応元年(一八六五)
永成は高尾村の知行主として他村と合わせて一五〇〇石(のち一〇〇〇石加増)を賜った。永成の系統は次の通りである。
名前没年没年齢
初代牧野内匠頭永成寛文二年(一六六二)四三歳
二代牧野内匠頭嘉成享保九年(一七二四)六九歳
三代牧野勒負勝成寛保元年(一七四一)四三歳
四代牧野河内守孝成延享五年(一七四八)二四歳
五代牧野半三郎徳成宝暦四年(一七五四)二九歳
六代牧野内匠頭資成安永九年(一七八〇)四三歳
七代牧野大和守成傑文政六年(一八二三)五四歳
八代牧野駿河守成綱嘉永二年(一八四九)不詳
九代牧野大和守成裕慶応三年(一八六七)不詳
荒井村の知行主も牧野氏であったが、系統的史料に欠け詳らかでない。諸書により復元してみると次のようである。慶長年間から寛文・延宝期までは牧野讃岐守康成(まきのさぬきのかみやすしげ)ー信成ー尹成と他村と同一であるが、続いて
牧野助三郎貞成ー?ー成房ー至成ー満成ー成表ー成富ー成義ー藤五郎ー寛十郎ー鉄次郎で、鉄次郎は幕末に生存した最後の領主である。

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