北本市史 通史編 近世

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第1章 江戸幕府の成立と北本市域

第2節 市域の知行割り

2 北本市域の領主

伊奈氏
本宿・山中・東間・深井・宮内・常光別所・花ノ木・古市場・中丸の各村は、天正十八年(一五九〇)の家康の関東入国後から天領として伊奈氏による代官所支配を受けている。慶安二~三年(一六四九~一六五〇)の『武蔵田園簿』ではこれらの村々は伊奈半十郎代官所の配下となっているが、およそ五〇年後の元禄十三年(一七〇〇)の『元禄郷帳』では旗本領に変っている。『新記』によれば東間村は明和五年(一七六八)、宮内村は元禄十一年、山中村と古市場村は元禄四年、中丸村は元禄年中、花ノ木村は元禄十年、常光別所村は一部が同四年に、残りが同六年に天領から旗本領へと大幅に変った。この期はいわゆる元禄の地方直しが行われた時期である。寛永期にも地方直しが行われたが、時代の進展とともに幕政機構の分化・整備化が要求され、直属家臣団の組織再編成や新たな知行体系(蔵米知行すなわち幕府が旗本へ蔵米を給与としてあてる制度から地方知行すなわち俸禄として土地の領主権を与えそこからあがる収益をうける制度へ)による旗本層の掌握、さらには窮乏した旗本を救済するためのものであった。

写真2 伊奈氏墓地 鴻巣市勝願寺

家康の関東入国当初の代官伊奈氏は備前守熊蔵忠次である。忠次は天正十四年(一五八六)から家康の近習となり、優れた智恵才覚で家康の執政をたすけたが、中でも民政に卓越した手腕を発揮した。家康が支配した関東の領地高は二四二万石余といわれているが、このうちの半分が直轄地にあてられていた。しかもこの直轄地は荒川・利根川流域の水田地帯をひかえた生産力の高い地域であった。家康はこの江戸を中心とした周辺の直轄地を伊奈忠次・坂本元正・長谷川長綱・大久保長安の各代官頭とそれらに属する代官によって支配させた。このうち忠次は「武蔵国小室鴻巣等の内に於て一万石の地を賜ひ」(『寛政重修諸家譜』近世:№八ノニ)、足立郡小室(伊奈町小室)、足立郡土屋村(大宮市土屋)、比企郡上大屋敷村(川島町上大屋敷)の三か所に陣屋を置いて民政の拠点とした。その中心は小室陣屋であった。忠次は各地の検地を実施、中山道の宿駅を整備し、また備前堀・川島大囲堤を造るなど治水事業にも尽力した。『新記』によると、東間二丁目にある鴻巣勝願寺の末寺勝林寺の開山日誉は伊奈熊蔵忠次の弟であるという。日誉は病弱だったので僧籍に入り、勝願寺に住し、のち当所に隠棲し当寺を開いたと伝えている。慶長十五年(一六一〇)六一歳で亡くなると長男の筑後守忠政が後を継いだ。しかし、忠政が三四歳で没したので、二男の半十郎忠治が兄の後を承けて関東郡代となった。忠治は新田開発と治水関係に努力し、元和七年(一六二一)には赤堀川の改修を行ったのを手始めに、荒川の氾濫を防ぎ吉野川への瀬替えを行うため、桶川市小針領家の地に備前堤を築き、寛永六年(一六二九)には荒川の流れを熊谷市久下で締めきり、新しい荒川の河道を吉野川筋に開削して吉野川に合流させ入間川へ流した。この結果、久下から東の流れは元荒川となった。その他見沼をせきとめて浦和以南の広大な低湿地を開発し、父同様民政に大きな足跡を残した。忠治は川口市赤山に陣屋を設け七〇〇〇石を領した。承応二年(一六五三)六二歳で没したが、祖父忠家、父忠次、兄忠政同様鴻巣の勝願寺に葬られた。
ところで本宿五丁目から山中二丁目あたりは、かつて小字名として蔵前という地名があり、国道十七号線を挟んで通称「蔵屋敷」と呼ばれる地があった。久しく伊奈氏の代官所跡と比定されている地である。平成二年(一九九〇)この地(雑木林があり堀跡が認められていた)の開発に先立って一部を試掘した結果堀割が確認された。代官所の支所的な場所かあるいは年貢米の一時的な集積地として活用されていたのではあるまいか。
山中村の領主の変遷は次の通りである。
初代関東郡代伊奈忠次慶長十五年(一六一〇)没 六一歳
二代伊奈忠政元和四年(一六一八)没 三四歳
三代伊奈忠治承応二年(一六五三)没 六二歳
四代伊奈忠克寛文十二年(一六七二)までの一二年間支配
五代伊奈忠常延宝八年(一六八〇)までの一五年間支配
六代伊奈忠篤元禄四年(一六九一)までの一一年間支配
七代旗本横田庸松(つねとし)享保十九年(一七三四)没 七〇歳
八代横田榮松(しげとし)宝暦六年(一七五六)没 六六歳
九代横田尚松(なおとし)明和元年(一七六四)没 五〇歳
十代横田延松(ながとし)以下不詳

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