北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

北中丸村
江戸期は上中丸村と下中丸村。中丸村が江戸時代の初期に上・下に分村してできた。はじめはともに幕府領であったが、上中丸村は元禄年間(一六八八~一七〇四)に旗本日下部氏の知行地となり、元禄十一年(一六九八)分家を排出し日下部二氏の相給となった。検地は慶長十七年(一六一二)と寛永十六年(一六三九)に行われた。村高は『武蔵田園簿』で二四八石余、うち田三二石余(ー三・ーパーセント)・畑ニー五石余(八六・九パーセント)、『元禄郷帳』では二五〇石余で、その後変わらなかった。高札場(こうさつば)は村の中央にあった。鎮守は氷川社で、他に七つの神社があり、寺院では氷川社別当の新義真言宗慈眼寺(下深井村寿命院門徒)・同愛宕山遍照寺(同門徒)があった。化政期の家数は五五軒であった。一方、下中丸村は元禄年間旗本日下部氏・多門氏の相給(あいきゅう)となった。検地は上中丸村と同じで、村高は『武蔵田園簿』でニー六石余、うち田三七石余(一七・三パーセント)・畑一七九石余(八二・七パーセント)、『元禄郷帳』では二三二石余で、その後変わらなかった。高札場(こうさつば)は村の東方と南東に二か所あった。鎮守は氷川社で上中丸村の氷川社を分祠、他に三社があり、寺院では新義真言宗瑠璃山(るりさん)安養院(下深井村寿命院末)・天台宗雲性寺(坂田村蓮華院門徒)があった。化政期の家数は五〇軒であった。主な物産に、米・大麦・小麦・甘藷・人参などがあった。

<< 前のページに戻る