北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

2 武蔵田園簿から旧高旧領収調帳

郷帳は、狭い意味では正保(十七世紀半ば)・元禄(十八世紀初頭)・天保(十九世紀前半)の三時期に作成された国絵図の付録として編さんされたものであるが、正保のものは『武蔵田園簿』として、元禄・天保のものは『関東甲豆郷帳』(元禄郷帳・天保郷帳)として活字化され、それに明治元年段階(十九世紀後半)での状況を調査した『旧高旧領取調帳』を加え、幕藩体制下における関東地域の村落の状況や支配のあり方を把握する上で、不可欠の基礎資料となっている。 
このうち、『武蔵田園簿』は、『正保田園簿』ともよばれ、正保絵図に添えられた郷帳の案であるが、幕府は正保元年(一六四四)日本国郡図および諸城図の作成を全国に下命したが、武蔵国図の作成については、「正保三年二月、大目付井上政重と目付宮城和甫が総裁となり、川越城主松平信綱、忍(おし)城主阿部忠秋、岩槻城主阿部重次および関東郡代伊奈半十郎忠治に対して、武蔵国図の呈出を命じた。しかし、直接作成にあたったのは、大番士飯河方好、小田切昌快、雨宮正種、遠山為庸らであり、慶安元年(一六四八)十二月二十五日に武蔵・上総両国を巡見して国図を作成すを支配していた代官高室昌成が慶安三年に病死していることなどを総合すると、『武蔵田園薄』が作成された時期は正保年間ではなく、慶安二年から三年にかけてである」(林巌『武蔵田園簿』における抓み高について『歴史手帖六』)と考えられる。しかし、そこに記載されている村高は、慶安二年以前の最も近い時期に行われた検地を基礎に算出したものと推定される。つまり、市域においては元和六年(一六二〇)或いは寛永六年(一六二九)段階の数値であり、同書が作成された十七世紀中期の生産高を表示したものではないと思われる。また、『武蔵田園簿』には永高制の村落が混在している。これは、近世初頭の年貢徴収高を永一貫文=五石替えで換算し、これを村高として表示したものであるが、生産高を村高としたものと年貢高を村高としたものでは、両者は本質的に異なり、これを直接比較することはできない。したがって、利用にあたっては注意する必要がある。
一方、『旧高旧領取調帳』の編さん経過並びに編さん年は明らかではないが、終局的には、内務省(明治六年成立)所管下において『皇国地誌』(明治五年、太政官正院の地誌課の事業として着手)とともに進められ、明治十年前後に完成したものと推定することができる。また、そこに記戰されている①旧村名、②旧領名、③旧高は明治元年段階のものであり、④旧県名は武蔵国については、廃藩置県(はいはんちけん)直後の県名とみてよいと思われる。そして、この両者をつなぐのが『元禄郷帳』であり『天保郷帳』であるということができる。そこで、これらの資料をもとに市域の村々における石高の変化について概観してみたい。
「北本市域村々の石高の推移」(表5)をもとに、『武蔵田園簿』―①→『元禄郷帳』―②→『天保郷帳』―③→『旧高旧領取調帳』の各時期における石高の増加状況をまとめたものが表21である。これを見ると、特に①の時期(十七世紀)における石高の増加が著しく、市域全体では二四五石余にのぼっていることがわかる。中でも最も多いのが高尾村の八ー石余で全体の三分のーを占めており、村高の二割以上の増加となっている。次いで下石戸村(上・下)の五二石余、荒井村の二九石余などが顕著であるが、これらの村々はいずれも荒川流域に新田を有する村々である。また、旧石戸領に属する五か村(下石戸上村・下石戸下村・石戸宿村・高尾村・荒井村)の合計では一七五石余となり市域全体の増加分の七六・ーパーセントに達する。それ以降では、やはり③の時期に高尾村が一八九石余の増加となっているが、これは『新記』に「此外荒川の岸に後年開きし当村持添(もちぞえ)の新田二か所あり、ーを上沼新田といひ、ーを高尾村新田と呼ぶ。共に御代官支配せり」と記されているように、代官支配所の両新田分が、このとき新たに村高に加えられたための増加と考えられる。荒井村の一七石余についても、『新記』に「此余荒川の岸に当村の持添の新田あり、御料所にして寛政六年浅岡彦四郎検地す」と記載されていることなどから、おそらく同様であろう。これ以外では村髙に大きな変化は見られない。
表21 北本市域における石高の増加状況

(単位:石)

史料名
村名
武蔵田園簿⇒元禄郷帳  元禄郷帳⇒天保郷帳  天保郷帳⇒旧高旧領取調帳  
旧 下石戸上村 52.073 0.8854 -0.79967 
石 下石戸下村 1.189 
戸 石戸宿村 12.790 0.507 
村 高尾村 81.78763 1.94137 189.481 
荒井村 29.175 0.933 17.9054 
旧 東間村 7.225 
中 北本宿村 2.638 0.070 
丸 深井村 15.640 0.86585 -10.86675 
村 宮内村 5.415 
山中村 9.965 
古市場村 6.283 
北中丸村 18.230 -1.826 
常光別所村 4.090 
花ノ木村 0.205 
合 計 245.51663 6.39162 193.89398 

(『武蔵田園簿』他より作成)

一方、東間村をはじめ旧石戸領以外のー二か村(当時)では、やはり①の時期に中丸村の一八石余を筆頭に各村において少しずつの増加が見られるものの、全体で六九石余(二八・四パーセント)と前者に比べ少ない。さらに、これらの地域では、その後の石高の増加は全くといってよいほど見られず、深井村の③の時期でのー〇石余の減少も、寿命院領一〇石が含まれていないためのマイナスであり、実際にはほとんど変化してないということができる。
このように、荒川流域に不安定ながらも広大な開発可能地を有する村々と、そうでない村々の差はあるものの、市域における近世初頭からの開発の波も、十七世紀までには一段落したということができるであろう。

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