北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

3 平地林の開発

新田畑の開発
次に示す資料は、元文二年(一七三七)の「山開畑荒地御改帳」であるが、以下にその一部を紹介する。
巳ノ立帰り
    下々畑拾壱歩
西山未新畑
    清右衛門
同 断
    下々畑三畝九歩
同所未新畑
    清右衛門
    ……
  (以下八筆略)
    ……
合三反三畝廿一歩
 右は山開畑の義、先達て元の山に願上げ奉り候処、此度御検分の上苗木植付け候場所、願いの通り元の山に仰付られ有難く存じ奉り候、尤も、右畑御年貢の義は、御窺いの上仰渡さるべくの旨畏り奉り候、御検分に付、御非分成る義御座無く候
  元文二年(一七三七)ー二月

名 主
組 頭
地 主 代

(矢部洋蔵家一三五八)


この資料は、去る未年(享保十二年・一七二七)に清右衛門らによって山を切開き造成された畑のうち、都合一〇筆・三反三畝三歩の畑を「山開畑の義、御願い申し上げ開発仕り候処、右場所悪場ゆえ畑に用立ち申さず難儀仕り候」との理由で、御検分の上、元め山に戻してほしいとの嘆願書である。
これらの畑は、享保十二年(一七二七)あるいはその前後に開発されたものであるが、その背景には幕府の新田政策がある。つまり、幕府は同七年七月に新田開発奨励の高札(こうさつ)を日本橋に立てたが、それを機に新田開発は一種のブームとなり、それから四年後の同十一年八月には「新田検地条目」を制定し検地の基準としたのである。しかし、これ以前においても新田開発は積極的に行われているが、それは「新田出来候儀はよろしき事に候得とも、外の害にならさる所は申し付け然る可く候、大概古田畑或はまくさ場等の障に成候事、度々之れ有る儀に候条、左様成所は無用為る可きこと」(『徳川禁令考』)とあるように、本(古)田畑重視の立場に立ったものであり自ずから限界があった。つまり、新田畑として開発可能地は主として本田畑にとって入会(いりあい)採草地的意味をもっており、刈敷(かりしき)などの自然肥料を中心としていた江戸時代前期の農業では、新田畑の造成は直ちに肥料給源の弱体化を生み、本田畑生産力の減少をもたらすことになる。したがって、新田畑の造成と肥料給源の減少という関係は領主の常に苦慮していたところであり、また、出入りの原因となった。ところが、元禄ごろ(一六八八~一七〇四)から干鰯(ほしか)や油粕をはじめとした購入肥料(金肥)が普及するようになり、肥料給源たる林野を潰(つぶ)しての畑作地の開発が可能になったのである。また、幕府は年貢増徴の立場から、これを積極的に推進していったのであり、その結果が武蔵野新田などであるということができる。
さて、この検地条目三二か条は「慶安検地条目」などとは異なり、年貢増徴の姿勢を前面に押し出しており、この点に時代の移り変わりをみることができる。一例をあげると次のとおりである。
新田畑に竹・木・葭(あし)等生い立ち、或いは荒地これ有り候はヾ、吟味の上田畑に開発成るべき場は、地主相極め、検地開発願済み候趣を以て鍬下の吟味これ有るべき候、田畑に成らざる場所はこれまた右願済候節之趣相極め、又は林畑或いは山野銭見計らい付くべきのこと

つまり、非常に条件の悪い場所でも可能な限り開発し、田畑にならないような所でも林畑として高に結び、または山野銭を徴収しろというものであり、「ごまの油と百姓は、しぼればしぼるほど出る」といつた姿勢が感じられる。
このような状況の中で、前述のように市域の村々からも開発願が出され、「西山」、「すわ山」、「八重塚」、「小池」といったような地域が新たに開発されることになったのであるが、無理な開発のため畑として利用できず、結局は元のように木を植え山に戻すしか方法がなく、開発は失敗に終わったのである。しかし、年貢については「右畑御年貢の義は、御窺いの上仰渡さるべくの旨畏(かしこま)り奉り候」とあるが、決して元の通りというわけにはいかなかったであろうことは容易に推測できる。とすると、この開発も農民の願い出によるものなのか、或いは強力に勧奨されたための止むなくの開発だったのかという疑義も残る。

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