北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

3 平地林の開発

野荒しと村議定
次に平地林の開発と関連して連判証文を一つ紹介しておこう。
    相定め申す連判証文の事
近年山大分荒申し山持ち難儀に付、相談の上相定め申し候、山主の外曽て山へ出入り申す間敷(まじく)候、若し、立木かれ枝下草下くず跡くつさり共取候もの見のがし申す間鋪(まじく)候、木を切枝をとり候者は過銭壱貫之を取るベし、下草下くず盗取候ものは五百文取るべし、見のがし候か内証にてゆるし候もの之れ有らば、其者方より過銭出し申すべく候、其の為連判証文仍って件の如し

 享保六年(一七ニー)丑ノ十一月廿五日

喜四郎㊞
兵左衛門㊞
作左衛門㊞
(以下略)

(矢部洋蔵家一〇五七)


この資料(村議定)は、後部が欠けていて何人が請印しているのか不明であるが、村の全ての名請人が捺印しているはずである。内容は、①他人の持山へは絶対に入ってはいけない、②木や枝を盗んだ者は罰金を貫文を課す、③下草、下くずなどを盗んだ者は同五〇〇文を課す、④盗人を見逃したり内証で許した場合は、その者から罰金を取る、といったものである。ここで取り決められているのは、田畑作物ではなく持山の立木や落葉荒しに対しての罰則である。これらは農民が農業経営を維持していくためには、肥料や薪炭の供給源として不可欠のものであるが、それが「持山」というように個人所有になっているところから、権利侵害としての「野荒し」が問題になっているのである。荒井村において「持山」の所有者が何人いるかは不明であるが、寛永九年(一六三二)の「荒井山下草銭改之帳」(矢部洋蔵家一三七七)ではー二人の名が見えており、彼らは領主に対し山年貢を納めることにより自分たちの権利を不動のものとしていったのである。そして、彼らの意思が「野荒し」を厳重に取り締まる方向にはたらき、村民のすべてをその認証に参加させる形で統制しようとしたものと考えられる。しかし、当然「持山」を所有しない者との対立はあったはずであるが、にもかかわらず連判証文が交わされた背景には、肥料や薪炭の供給源が農業の再生産を行っていくために不可欠の条件であり、それを守ることなしには農業秩序を維持していくことができないのだという認識が共通に存在していたためと考えられる。
大宮台地上に位置し雑木林が豊富な市域の山林は、畑として開発するにも格好の条件を備えており、早くから開発が進められ「荒井村枝郷北袋村」の誕生に代表されるような耕地面積の増大をみたのである。しかし、本来無住の地であり、天下のものであった山林が、農民の用益が進むと、村々入会、村中入会の慣行が生まれ、領主も山を囲い込み山年貢を徴収するようになる。こうして、用益や開発をめぐって村々や百姓相互の対立が生まれ「出入り」(訴訟)が頻発するのは後述のとおりである。

<< 前のページに戻る