北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

1 元禄期の秣場論争

秣(まぐさ)とは馬草のことで、文字通り馬の飼料にする草で飼葉(かいば)のことである。この秣は山林や原野の下草や若枝があてられ、厩(うまや)に入れて飼葉にするとともに、馬に踏ませて厩肥(きゅうひ)(肥草(こえぐさ))とし、あるいは焼いて青灰という良質の灰肥とした。秣場のことを「田畑養に馬飼料に仕来り候」(矢部洋蔵家一〇九〇)と記している。近世の農民にとって秣は営農上不可欠のものであった。
この秣場は一定地域に住する多数の人が一定の権利を有し、その区域内に生ずる下草や林産物などの使用収益に共同で当っていた。これを入会(いりあい)(地)と呼び、古くから村々の慣習として存在していた。第一章第四節「検地の実施」で述べたように慶安期から元禄期にかけての四〇年間ほどに市域の村々の開発はかなり進行した。山林原野を開発し新田畑を作るのであるから、そのための肥料を要すが、肥料源である秣場が減少するという問題に直面し、秣場論争が発生する。こうして元禄時代になると入会に関する紛争が起こった。市域でも新畑の開発が進み、村内の秣場が不足してくると荒川の河川敷である上沼と下沼へ依存を高めるのは自然の勢いである。もっとも石戸領として全村がー領全域に入会権があるとの一体的認識も働いていたと思われる。それゆえ台地中央部の下石戸上・下村が上沼・下沼に入り会ってきたと思われるが、荒川通りの高尾・荒井・石戸宿の村々にとっては入会地の侵害と写ったのであろう。市域の秣場論争は、この対立を軸として展開された。

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