北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

下石戸上村
かつては石戸村と称したが、元和検地(一六二〇)のとき石戸町と下石戸村に分村し(矢部洋蔵家二四六六)、その後、元禄ごろまでに下石戸村が上・下に分村したものと思われる。旗本牧野氏の知行地で、検地は寛文八年(一六六八)、荒川岸の下石戸村新田は寛政六年(一七九四)検地し幕府領となる。村高は『武蔵田園簿』(上・下分村前)で六五二石余、うち田一七五石余(二六・八パーセント)・畑四七七石余(七三・二パーセント)、『元禄郷帳』では三〇七石余で、以後はほとんど変わらなかった。荒井・高尾-石戸宿村と、秣場や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかった。高札場(こうさつば)は村の東方にあった。鎮守は氷川神社で、他に天王社もあった。寺院は貞観六年(八六四)慈覚大師の創建と伝えられる天台宗医王山真福寺(川田谷村泉福寺末)、本山派修験楊門院(ようもんいん)があった。化政期(十九世紀初め)の家敬は六〇軒であった。主な物産に、米・大麦・小麦・大豆・小豆・粟・稗・菜種・甘話・清酒などがあった。

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