北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

1 元禄期の秣場論争

論争の発端
訴訟状として残されている一番古いものは元禄八年(一六九五)の次のものである。
恐れながら書付を以て御訴訟申し上げ候

牧野八太夫知行所

武州足立郡石戸領下石戸村

秣場出入

訴訟人 名主 次郎兵衛
    組頭 八左衛門
       惣百姓

牧野助三郎様御知行所  
 同国同郡同領新井村 
     相手 名主 平兵衛
 牧野半三郎様知行所  
  同領入会高尾村 
        名主 甚五兵衛
 牧野八太夫知行所  
  同領入会石戸村 
        名主 善右衛門


右石戸領五千石之儀は、先規牧野内匠頭様御一領にて御座候、其以後御一家枚野長門守様・同半三郎様・同八太夫様右御三分に御分け遊ばされ候ても、御役人は御壱人にて諸事御支配成され候御事
下石戸村の儀は高六百八拾九石余之惣百姓上沼・下沼両所にて先規より秣入会に莉来り申し候処に、当六月中より俄に鎌を留(止)められ申し人馬飢命に及び候事
高尾村・新井村・石戸村・下石戸村右四か村先規より田畑入込み村々秣入会に莉(かり)来り申し候所に、今度新井村の者ども我儘(わがまま)仕り下石戸村へ秣対らせ申さず候につき迷惑仕り、是非なく御訴訟申し上げ候、御慈悲に依り右三か村の者ども御召出させられ、御穿鑿(ごせんさく)の上先規の通り秣入会に莉取申す様に仰せつけ下され候はば有難く存じ奉るべく候

以上
石戸領下石戸村

   
元禄八年(亥)十一月
訴訟人名主 次郎兵衛

組頭 八左衛門
   惣百姓

   御奉行様

(矢部洋蔵家ーーー七)


荒井村が今まで秣場として入り会ってきた上沼・下沼から下石戸村を除外したので、旧に復してほしいとの訴えである。
これに対して勘定奉行所から次のような回答が寄せられた。
斯くの如き目安差上げ候間双方誓紙を致し、論所へ立会い場所相違無き様着枚絵図仕立、返答書相添え来る子の正月廿五日評定所へ罷(まかり)出で対決すべし、若し不参に於ては曲事たるべし、但し双方百姓并びに絵師誓詞案文は下石戸村次郎兵衛八左衛門に相渡し之を遣す者なり
      十一月十五日志摩(以下七名連記)

(同前掲文書)


両名に渡された案文は散逸していてその内容を知ることはできないが、これを承けて反対の訴状が、翌九年九月に勘定奉行所に荒井村と石戸村の名主組頭ら一九人の連名で提出された。
恐れながら返答書を以って御訴訟申し上げ候
今度下石戸村名主惣百姓申し上げ候様当村及び高尾村・新井村・石戸村四か村の儀は、先規より入会に秣苅来り申し候段、偽に御座候事
石戸領五千石御ー領に御座候時分より荒川通りの村々は川端通りにて秣苅申し候、中通りの村々は海道(中山道)に相添う秣場御座候、下石戸村の儀も桶川町上より海道に相添う百町歩余の秣場御座候て面々莉来り申し候事
高尾村・新井村・石戸村三か村の入会秣場の内、牧野八太夫様御分御立野御座候、是は石戸村地元に御座候えども先規より由緒御座候に付新井村・石戸村両村にて野番等仕支配来り申し候事
右の立野去る亥の春中御取上げ成され、下石戸村三郎兵衛と申す者に御預け成され候、この者我儘に(この文書行間に追記)入会の秣場へ境立出し闕(のぞ)き申し候、尤も高尾村の名主惣百姓より申し候様は、下沼分新井村下にて以前より吟味仕り候筈に御座候処へ俄に境仕出させ候事不吟味専横(せんおう)に存じ出入に罷(まか)り成り、拙者ども御地頭牧野助三郎様まで書付差上げ申し候につき、拙者ども返答書を以って申し分け仕候節、下石戸村の者ども申し出し候様は、上沼・下沼両所にて入会に前申し候段御地頭様まで申し上げ候えども、各別の偽に御座候間拙者ども合点仕らず候事
右出入牧野長門守様御取扱い遊ばれ下さるべくと、高尾村・新井村名主百姓双方召寄られ委細御尋ね遊ばれ候、上下石戸村は御除成され候、これにより先達て御公儀様へ罷出候下石戸村高六百八拾石余の村に秣場百町余御座候、高尾村・新井村・石戸村三か村にて高合せて九百石余御座候村にて、上沼・下沼秣場七拾町余御座候えば不足に御座候、下石戸村は馬草場大分に御座候故そのうち段々新田に取立て、下石戸村より百姓仕付け申し候所に、今度俄に新井村の者に鎌を留められ人馬とも飢命に及び申すなどと偽り御座候事

右の通り委細立合い絵図に仕立て差上げ申し候、今度の出入候儀立野下石戸村三郎兵衛に御預け遊ばれ候につき、出来(しゅったい)申す間この段御地頭様へも御訴訟申し上げ候、先規の通り地元へ仰せつけ下さるべく候、委細御詮議の上諸事先規の通りに仰せつけさせられ下され候はば有難く存じ奉り候、            以上
  元禄九年(子)九月
新井村名主 平兵衛

石戸宿村名主 善右衛門

御奉行様
(外に両村の組頭一七名連記)
 

(矢部洋蔵家ーーーニ)


この訴えで高尾・荒井・石戸の三村が強調していることは、上沼下沼に下石戸村が古来より入り会って来たというのは偽りであること、下石戸村の入会地は中山道に沿う秣場であること、牧野八太夫領分の立野は本来三村の入会(いりあい)地であるがこれを下石戸の三郎兵衛に預けたのは合点がいかない、下石戸村が上沼下沼の秣場から入り会いを阻止され飢命に陥っているというのも偽りである、といったことなどである。
以上の訴状の外にも十三塚や九丁野なども秣場出入りがあったのであろうが(この秣場の訴状は残っていない)、これら各地の出入りを一括して元禄十年(一六九七)六月、各秣場の入会権について裁決が下された(近世No.五六)。この裁決は絵図の裏面にあるので、通称裏書証文と呼ばれているものである。

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