北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

1 元禄期の秣場論争

裁許の内容
この裁許状では、上沼・下沼・十三塚野・九丁野の四か所に裁決が下されているので、裏書きを口語化して述べていきたい。

写真6 裁許状 元録10年(北本教育委員会蔵)

①上沼
「下石戸上村と同下村の二村の者の言い分石戸・下石戸・荒井・高尾の四か村は古くは一村だったので田畑山林屋敷の入り組みが多く、上沼・下沼・九丁野・十三塚その他、無年貢の土地も互に入会地として利用してきたと訴えた。これに対して荒井・石戸両村の者が答えていうに、下石戸上・下の両村は前々から上沼へは入り会ってなく、高尾村と荒井村および石戸村の枝郷横田の三か村が入り会ってきた。先年上沼の境界が問題となったとき、荒井村の枝郷の北袋村と高尾村が原馬室村と証文を取り交わしたおり、荒井村はこの地(上沼)に入り会ってこなかったと髙尾村の者が証言した。ところで高尾村からの異議申し立てでは上沼野の地元は高尾村であり、秣刈りには北袋村が入り会ってきたのであって、荒井本村・下石戸上・下の両村および横田の者は一切入り会ってなかった。二十三年以前原馬室村と上沼野の境界争いがあったとき、北袋村から原馬室村へ証文を取り交わすことになった。そこで現地を検分したところ下石戸上村・下村の者が上沼野へ入り会ってきたと言っていたが、その証拠は不確かであった。先年原馬室村が高尾村と取り交わした証文には北袋村と高尾村の両村が書いてあり、他村の名は載っていない。そのうえ上沼野の内に神明の森を取り立てたときも高尾村と北袋村が相談をして取り立てているところからすると、上沼野に高尾村と北袋村の両村が入り会ってきたのは紛れもないことといえる。しかし、荒井村枝郷の北袋村が入り会うのであれば本村荒井村も入り会うべきである。今後は高尾・荒井・北袋の三か村の者が互いに入り会って秣は一切入り会うことはならない。」
このような裁定が下された。以上の長々とした裁定を表にまとめると次のようになる。高尾村と北袋村と地元に上沼があるのであるから、これを両村が秣場とすることは自然であるが、上沼から離れた荒井、石戸、下石戸上・下の四村が入会権を主張し争いとなった。この訴訟を通して、下石戸上・下の両村が長年要求してきた上沼野への入会権は退けられた。
表22 裁定一覧 (上沼への入会権)
 下石戸上下石戸下荒井北袋石戸 横田高尾
下石戸上・下
荒井・石戸 xx
高尾の証言 X
高尾の異議 XXXX
23年前の証文 (証拠不十分)XXX
神明森取立
裁 定 xxxx

注 ○入会可 ×同不可

②下沼
「荒井村、石戸村の申し立ては、下沼野には荒井、石戸、高尾の三か村が入り会ってきたのであって、下石戸上・下村が入り会ってきたということはない。下石戸上村のうち百姓ー九軒は先年荒井村へ居住となった故をもって入り会っている。下沼野道より北は砂塚といい、ここは高尾村の地元で秣は荒井・高尾の両村が入り会っている。下沼野道より南は下沼野といい、荒井村の地元で高尾・荒井の両村が入り会っているが、境となっている道が不確かである。そのうえ荒井村が古く開発した所もあり、荒井村の船頭も下沼野道より北に住んでいる。荒井・高尾両村が言っている下石戸上村の百姓一九軒由緒あって入り会うようになったというので、下石戸上村と荒井村の古い検地帳を調査したが右の一九軒の者が先年から荒井村の百姓になったというのははっきりしない。下石戸上・下村は下沼野のきわに田畑や林があるところをみると、下石戸上・下村が入り会ってきたのは紛れもないことである。その上、下沼野の内に石戸村の立野があるということは入会関係があった紛れもない証拠である。以上のことからして地元秣とも高尾、荒井、北袋、石戸、横田、下石戸上村・下村の者は入り会ってよい。」
以上のような裁定が下された。ここ下沼でも荒井村や石戸村は下石戸上・下村に入会権を認めようとしなかったが裁定では全村に入会権が認められた。
③ 十三塚野
「十三塚野についての下石戸上・下両村の言い分は人塚のきわにある道より南は、下石戸上・下村が入り会ってきたところ故に、十三塚のきわに新しく山林を仕立てた。これに対して荒井村の言い分は下石戸上・下村が入り会ってきたという事実はない。人塚のきわにある道より北の道までは荒井・高尾・小松原が入会い秣刈りをしてきたといっている。検分の結果では荒井村はそう主張しているが、野境の道すじは一切不確かであるばかりか、先年この十三塚野内で行き倒れがあったとき、高尾と小松原の両村から世話人夫が出ており、地頭役人から差し出された書状にも高尾と小松原の事は書いてあるが、荒井村のことが載ってないところをみると荒井村はこの十三塚に入り会ってきてないことが判明する。下石戸上・下村は十三塚のきわの古い林に続けて荒しい林をつくり入会地としたという。人塚のきわにある道より南の方は高尾、小松原、下石戸上・下村の者が入り会い、この道より北は高尾・小松原の両村が入り会うべきこととする。」
④ 九丁野
「荒井村と石戸村が争っている九丁野は前々から荒井・石戸・下石戸上村の百姓ー九軒が入り会ってきたといっているが、九丁地内に下石戸上村の百姓が開いた荒畑があるところから判断して、荒井、石戸、下石戸上、下村が互いに入り会ってよいことにする。」

「墓地のことでは、高尾村と下石戸上村が争っているが、この墓地は両村の境界にあり、両村の百姓の石塔があることからして、両村入会の地であることは明らかなことである。ところでこの墓地にある地蔵堂に住んでいる道心は高尾村の支配下の人物であるから地蔵堂の支配も高尾村とすべきであり、墓地の支配も高尾村とすべきであり、墓地は両村の入会でよい。」
十三塚野については荒井村が下石戸上・下村を排除しようとした言い分は認められず、上・下両村の主張が裁許され、人塚のきわにある道より以南は高尾村・小松原・下石戸上・下の四村が、道より以北は高尾・小松原二村の入会地とされた。また、九丁野についての荒井村と石戸村の争いについては、荒井、石戸、下石戸上・下の四村の入会地とされた。
⑤立山
「下石戸下村の者が申すには権現山と前山の間にある立山は下石戸下村の支配するところで、下村は山年貢を納め支配してきた。ところが石戸村の百姓がこの立山を切り開いたばかりでなく、権現山の下まで畑を開いてしまった。その上権現山続きにある石戸村百姓甚左衛門の屋敷を権現山の中としてしまい、石戸村の土地として掠(かす)めとってしまったと申している。これに対して石戸村が次のように答えた。立山は石戸村の百姓山で畑を開いたところは甚左衛門の屋敷内である。そのうえ権現山の下は古くからの畑といっているがそれは正しくない。権現山の地続きの木立は下石戸下村の立山であり、石戸村の屋敷と権現山の下の畑を測ったところ屋敷面積が広いということは、石戸村が下村の立山を切り開いた証拠であり、権現山下の畑も検地帳により広くなっている。以上のことから石戸村が下石戸村の山を開発したことは間違いなく、権現山続きの屋敷も下石戸下村の山を開いたと見なすことができる。よって今後石戸村の者は

「石戸村の七兵衛の屋敷周囲のうち、西と北にある木立は残らず高尾村地内のものであると申しているが、西側の杉苗のあるところは高尾村分とする。家の後ろの通りは下石戸下村の権現山分といっているが明らかでなく、木立の地続きは先きの判決の通りである。よって北側家の通りは下村とし西側は高尾村と定める。」
権現山と前山の間にある立山をめぐる下石戸下村の領有の主張は認められ、石戸村は敗訴した。七兵衛屋敷周囲の西と北についても高尾村の主張は半分のみ認められ、半分は下石戸下村の地と決定された。
⑥薮地と畑
「下石戸上村の百姓屋敷回りの二か所の薮(やぶ)地は、荒井村地内のものであると申し立てているが、これは上村の百姓屋敷がこいの薮である。今後は下石戸上村の地内とする。」
「北袋村地内にある高尾村の林の中の畑二か所は、北袋村所持の古くからの畑であるとのことであるが、測った結果では畑の面積は広く新しく開いたことに間違いなく、高尾村のものである。」
以上が論争地に対する裁許内容であるが、裁許状の結び部分は以下の通りである。
「高尾村に申し付ける事右の論争地は不分明につき、検使として永田作太夫手代田中園右衛門と山田源左衛門の手代今井助左衛門を派遣し検分したうえでこのような判決をしたものである。今後田や畑の間にある未開発の地は、未開発の地に接する田や畑を所有している村々が入会権をもっこととし、開発は一切ならない。ここに後々の証拠のため絵図の境界に線を書き入れ、押印をしたものを下石戸村、荒井村、高尾村へそれぞれ一枚ずつ下し置くから末永く今回の判決を守ること
元禄十年(一六九七)丁丑六月六日
奉行萩近江㊞
(以下九人略)」
裁許後の各秣場や土地の入会権や所有関係をまとめると表23のようになる。なお、奉行所は今後の争い防止のために「惣(すべ)て野内に新開発一切これを致すべからず」と新開発の禁止を命じた。
表23 入会権と所有関係一覧
 下石戸上下石戸下荒井北袋石戸 高尾横田
上 沼XXXX
下 沼
十三塚XXX
X
九 丁
墓 地
立 山X
屋 敷X
藪 地X
北袋地内畑X

注 ○入会可 ×同不可

この一連の訴訟に要した費用の記録がある。元禄八年(一六九五)起こしの「亥六月十二日より秣場出入出銭請取帳」(矢部洋蔵家ニ二八七)がそれである。各村の費用負担額は記されてないが、「一五両内壱分北袋未進」とか「一四貫七百六拾弐文、外百文高尾より取」あるいは「八拾弐町三畝拾五歩ニテ右の出銭出ス」などの文言からして各村々が村高に応じて負担したことが分かる。これに要した費用は元禄九年十二月までで、拾三両三分と銭百五拾九貫三百六文で、絵図面を描いた絵師への謝礼と宿泊賄い代、江戸への交通費と宿泊代などであった。
先に述べたようにこの裁許絵図は判決結果の境界を記入し後日の証拠としたもので三部作成された。縦約二・三メートル、横約ー・七メートルの大きなもので、絵師は武州小用村(鳩山町)の松本左五兵衛、同筑根村(越生町)の奥富源兵衛、同鴻巣町(鴻巣市)の長谷川善兵衛の三人である。
この絵図は詳細かつ正確に描かれている。範囲はほぼ旧石戸村全域に及んでいる。本市には江戸時代の地図がほとんどなく村明細帳も一冊も残されていないので、この絵図は元禄期の村の様子を知るうえで貴重な資料である。以下、この絵図から読みとれることがらを列挙しておく。

図8 土地の入り混じり状況(大蔵寺~台原)

(『北本地名誌』P12より作成)

(1)全体的な大きな特徴は、下石戸上・下、北袋、高尾、荒井、石戸宿の各村が、このころすでによく入り混っており、複雜この上ない境界と無数の飛地が混在していることである。旧中丸村をはじめ県下のほとんどの江戸期の村々の境界と比較してみると、このたとえようのない複雑な境界は何に渊源(えんげん)しているか今後の研究がまたれるところである。ともかくこの複雑な境界は三〇〇年後まで存続した。
(2)下石戸下村の大蔵寺近辺には、上村の飛び地が多数入りこみ、極端な表現をすれぱ、畑一筆(いっぴつ)ごと交互に上村と下村の畑が混在している。おそらく江戸期に入つてから本格的に開発が進行しだしても、ー領主による一円的支配がなされ、一村として出発した意識が永続されやすい状況化にあったのではないかと想像される。このような意識下、無主の林地を上村籍の農民が開けばそこは上村と認知されたのではあるまいかと思われる。
(3)下石戸下村かつぱやしには、林を開いて造った屋敷が規則正しく並び、そこに一~二戸の農家が居を構えている。これはこの地の開発が特定の時期、おそらく十七世紀に計画的になされたことを示唆するものであろう。

写真7 十三塚秣場 元録10年 (北本教育委員会蔵)

(4)このころ下石戸下の台原は一面の林におおわれている。
(5)荒井の中岡から八重塚(西部公民館から北里病院)に至るー帯は広く平地林におおわれているが、髙尾村分の高尾山と荒井村分の荒井山同八重塚山が各々半分の面積をしめ、周辺に荒井村分九町山、下石戸下村分の山(林)がある。
(6)高尾山の阿観堂の西側には湧水池兼溜池があり、ここを水源とする水路に沿って水田が開かれているが、高尾村と荒井村分の水田がこれまた一筆ごと交互にといってよいほど混在している。台地の村ゆえ水田は貴重視されたことがうかがえる。なおこの地図にはこのような池が三か所あったことが確認される。
(7)この一帯には十八石田・十八石畑・十八石山・十八田・十八畑などというように十八を冠した地名、耕地名が散在している。
(8)高尾村の東北部方面(西高尾六丁目あたり)には十三塚野という秣場があり、塚の所在を示すと思われる〇が一三個表示してある。このあたりは小松原村、原馬室村との境界が入りくんでいるばかりでなく、下石戸上村の林や下村の林・水田が広がっている。ここにも十八を冠した林や水田がある。
(9)西高尾八丁目あたりには讃岐谷田という耕地名があり、湧水池・溜池がある。
(10) 荒井村枝郷北袋村は、高尾村内に強く割り込んで立村した様子が読みとれる。高尾村山が、北袋村の中央と荒川に臨む西側にある。

写真8 石戸宿家並み 元禄10年 石戸宿

(11) 石戸村(石戸宿五・六丁目)は、みごとな街村をなし、宿内四八軒中四四軒が道路に沿ってならび、石戸宿と呼ばれるにふさわしい景観を呈している。
(12)荒川の河川敷(天神下)には石戸村立野が大きく広がっている。ここは領主牧野家の直轄地で、秣場のように多くの農民による一般的共同利用が禁止されていた。この中にわずかながら畑が開かれている。ここのみ立野とさ
れていた理由は不明である。立野は領主の直接支配下の土地で、農民の入会
い利用は禁じられていた。台地の縁辺(斜面林)は石戸村秣場となっている。
(13)荒川の袋地(桜堤西側には、地頭立野、下石戸上村源八開発畑、勘解由野(かげゆの)がある。)
(14)高尾の渡し以北の上沼野には馬室方面から水路が南下し、数条の道路がある。上沼野馬室分には秣場と大書してある。
(15) 横田市場(石戸宿八丁目)の西側に広がる下沼野の下流部には「地頭立野、三郎兵衛野、石戸村善右衛門、同平兵衛、三郎兵衛開発畑」が記名してある。ここには家一軒があり、「論所薪家」とある。

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