北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

2 享保期の荒川通りの秣場開発

秣場永続と税負担の増大
このような動きの中で、享保九年(一七二四)上沼秣場の開発願いが出され、そこを入会利用する荒井村と高尾村の村役人が代官のもとへ呼び出され、開発か草永・運上金(又は高入れ)かの選択を迫られたものと思われる。そして、開発出願と幕府の開発方針(年貢増徴政策)との間で苦慮した両村では、草永として毎年一反につき永七二文、五〇町歩(実際は四一町歩余)分として永三六貫文(金三六両)の納入を条件に、秣場の永続を願っているのである。
次に享保十年(一七二五)十二月の矢部洋蔵家文書をみてみよう。
指しあげ申す証文の事
 一 武州足立郡石戸宿・石戸上・石戸下・荒井・高尾五か村の入会秣場はおおよそ弐拾五町歩の所、ただ今まで草永が無く秣莉取り田畑養に馬飼料に仕来たり候ところに、よそより開発相願い候、よそへ(秣場を)相渡し候ては(私たちのくらしが)難儀仕り候につき、五か村名主・惣百姓願い奉り候は、有り来り通り入会草場にて御指し置き下され候はば、御運上米として当巳年暮より来年の暮まで三か年のうち(三か年間)卷か年七拾俵ずつ都合弐百拾俵、ただし三斗七升入り(の俵)にて、浅草御蔵へ相廻わし上納仕り、その上新規草永皂反につき弐拾四文づつの積(つも)りを以って、壱年に金三両当巳の暮より上納つかまつるべき旨、先だって願い奉り候ところに、当十二月六日筧播磨守(かけひはりまのかみ)様御内において寄合し、願いの通り仰せつけられ有難く存じ奉り候、(ところで)右米と金当暮金代御座無く候につき、当暮の分来たる三月までを限り指し上ぐべき旨仰せ渡され有難く存じ奉り候、御定めの通り滞りなく上納仕まつるべく候、勿論巳年暮より七拾俵づつ末の暮までに都合弐百拾俵上納仕つるべく候、右場所来る午の年御検地を請け高に入れ諸役相勤め申すべく候、尤も草地残らず御邨(むら)所に仰せつけられ候につき、新高めいめい五か村御正し下さるべく候、草永の儀は午の暮より彦反につき弐拾四文づつの積りを以って〔〕に御指し上げ候、右御運上指し出しのうち質地として田畑合わせて三町八反八畝歩、右五か村より指上げ候、別紙村わけ等書面の通り相違御座なく、右田畑質書き入れすべて何にても障り〔 〕候、右趣き惣百姓方より名主方へ証文取り置き申し候、後日のために名主・年寄連判御証文指し上げ申し候、よってくだんの如し
 享保十年巳十二月十二日


牧野半二郎知行高尾村
名主 甚五衛門
次右衛門
牧野助三郎知行
荒井村枝郷北袋村
平右衛門
次右衛門
(矢部洋蔵家一〇九〇)


今まで無租地であった五か村入会の秣場弐拾五町歩が開発されることになった。これでは田畑養いや飼料に困ってしまうので従来通りにしてほしい。その代償として三か年で米弐百拾俵、それに草永として壱年に金三両ずつ納める。また午の年の検地をうけて村高に入れ諸役も勤めることにする。ついては運上金指し出しのため五か村で田畑合わせて三町八反八畝を質地として指し上げたい。よってここに証文を指し上げるという内容である。証文の受け手は記してないが、この証文が矢部洋蔵家に保存されていたこと、および矢部家の資力からして、荒井村名主平兵衛であったと推察される。なお、矢部家には多数の質地証文が残されているが、本件と照合するような証文はないので、正確なところは今後の研究調査にまたねぱならない。いずれにしても入会秣場の開発と新規貢租負担は農民にとって二重の負担がかかってくることになるので、運上米や草永を負担する讓歩をしてでも秣場の存続を図る道を選ばざるを得なかったのであろう。これほどまでに農民に苛政(かせい)をしいた享保期(一七一六~三六)の幕政はどのように展開されていたのであろうか。

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