北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第2節 秣場と論争

2 享保期の荒川通りの秣場開発

幕府の土地政策         
八代将軍吉宗の幕府は、枯渇(こかつ)した財政や窮乏化の旗本層の建て直しに諸事倹約・上げ米の制・定免制・流質禁止令などの施策を矢継ぎ早に実施に移したが、新田開発も有効な対策の一つであった。享保六年(一七ニー)には荒地の開墾を獎励したが、翌年七月には日本橋に町人請負新田を公認募集する高札を掲げ、幕府の土地政策上注目すべき法令を出した。次いでこの年の九月、新田可耕地の領有権を確定した法令を出した。この法令が市域にも波及して、それが先の証文となって表われたのである。この法令は「惣て、自今新田畑開発あるべき場所は、吟味次第障りこれ無くにおいては開発仰せ付けらるべき候、(中略)いまだ開発仕まつらずこれあり候場所の分は、山野又は芝地等あるいは海辺の出洲内川のたぐい、新田畑になるべき所は公儀より開発仰せ付けらるべく候」という内容で、公儀すなわち幕府の権力が未開の地にいやおうなく及んでくるもととなった。
幕府は享保十一年(一七二六)八月には今度は新田検地条目を出したがその規準は厳しく、例えば第一五条「畦ぎわ壱尺ずつ除くべし、ただし類地もあぜぎわ壱尺ずつこれを引き……」とか、第二三条「旱損・水損の申し立てこれあり候とも一切聞き上げ申さず、その土地相応の石盛相極めるべき事」、第二四条「新田場に竹木葭(あし)等生え立ちあるいは荒地これあり候はば、吟味の上畑に開発成るべき場は、地主相極め検地いたし……」等々とどんな土地でも開発を奨励し検地をして、高入地の拡大を通して年貢増徴を図ろうとしたものであった。このような厳しさに対抗してその緩和を求めて差し出した一札がある。
 差し上げ申す一札の事
今度荒井村・高尾村・石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村以上五か村入会い秣場ご検地請け候処に、荒川水除け城ケ谷堤、ならびに下沼堤右二か所堤ぎわ横二間通り、堤外秣場地面の内お除き置き下され候、かつ又荒川端の川欠け(川の流れで削りとられた所)になっている場所は、吟味の上横幅弐間通りをこれ又お除き下され候こと
右五か村入会秣場の内、吉見領へ行く荒川渡場道・川岸道・川越道の三道の幅壱間、並びに作場道は幅三尺通りにお指し除き下さるよう相願い候(後略)

 享保十弐年未二月廿日

(矢部洋蔵家六七ー)


享保改革の年貢増徴政策が荒川河川敷の秣場にこのような形で及んできている。近世村落ができてからでも一五〇年間近く秣場として機能してきた上沼・下沼も検地をうけ「御年貢諸役相勤め申す」役が新たに課せられるようになった。享保十二年(一七二七)三月には、高尾村と荒井村は次のような覚えを取り交わし、年貢諸役の村高の確認をし合っている。
 上沼秣場両村割合の覚え
弐拾町三反三畝廿四歩    江堀より東の方
弐拾三町三反弐畝廿五歩   江堀より西の方
 
弐口合四拾三町六反六畝拾九歩
 
弐拾三町三反弐畝廿五歩    江堀より西にて
 
 
弐町九反三畝拾七歩      江堀より東にて
 
弐口合弐拾六町弐反六畝拾弐歩 高尾村
 
残拾七町四反七歩       荒井村

右の通り秣場町歩内割名主・与頭・惣百姓立ち合い相談のうえ境相立て申し候うえは、御上の御検地にて留たり場川欠こさ引き道敷きおきわの下町歩不足御座候とも、相互に過ぎ引き仕まつらず立ち合いにて相立て候、境立て直し申すまじく候、然る上は御上の御検地町歩高を以って永々御年貢諸役相勤め申すべく候、そのため連刻証文取り替し申し候、よってくだんの如し


武州足立郡高尾村
名主 甚五右衛門
組頭 市之焏
   以下九人(略)
同国同郡荒井村
名主 平兵衛
年寄 太左衛門
組頭 五郎左衛門
   以下八人(略)


伊奈半左衛門様
御役人中様

(矢部洋蔵家六七五)


享保十四年には秣場の面積と入会村について報告書が提出されている。
   差し上げ申す一札の事
 
 上沼秣場
四拾壱町余高尾村、荒井村弐か村入会秣場
 
 下沼秣場
弐拾四町余高尾村、荒井村、下石戸上村・下村、石戸宿、五か村入会秣場
 
右之外拙者共村々二秣場一切御座無く候、先達て書付け指し上げ申し候えども、又々御吟味に付、書付け指し上げ申し候、以上


武州足立郡石戸領荒井村
名主 平兵衛
組頭 半右衛門


 享保十四年酉五月
  大川通り御普請役
   木村元七様

(矢部洋蔵家ー三五ー)


以上みてきたことでわかるように、上沼野と下沼野は秣場として存続することになったが、草永と称する年貢を上納することによって利用権の確保を図ったのであった。
しかし、年々上納しなければならない草永の負担は、両村の農民に重くのしかかってきた。次に嘆願のようすを二つの文書によって具体的にみてみたい。
   差上げ申す証文の事
武州足立郡荒井・高尾村入会秣場、去る巳年(享保十年)より草永壱反に付き七拾弐文っゝ納来り候処に、荒川端堤外にて度々水入りに罷成(まかりな)り、殊に近年川通り伐払い仰せ付けられ、別て、砂押入り秣一切生立ち申さず草永上納仕るべく方便御座無く候に付き、右秣場四拾壱町五反八畝拾四歩の処、去る子年(享保十七年)より来る寅年(同十九年)迄三ケ年に開発仕り、卯年(同二十年)御検地を請け高に入の積り、且又、右草永の儀去る子年より御免成下され候様に先達て願い奉り候所に、御吟味の上願いの通り仰せ付けられ有り難き仕合畏り奉り候、然るにおいては、此上随分精を入れ三ヶ年の内開発、卯年御検地請け、御吟味次第御年貢諸役相勤め申すべく候、其のため一札差上げ申し候、仍て件の如し

 享保十八年丑正月


高尾村      
名主 甚五右衛門㊞
荒井村      
名主 専右衛門㊞


 伊奈半左衛門様
   御役所

(矢部洋蔵家九五七)


  恐れ乍ら書付を以て御訴訟申し上げ候
草永(去ル巳(享保十年)より亥年(享保十六年)迄)、合金弐百弐拾七両一一分永拾四文
 
此内、金百五拾九両弐分永弐百弐拾八文六分  当卯(享保二十年)迄御上納
 
残て、金六拾八両永三拾五文四分
 
  此わけ  金三拾壱両三分永八拾八文四分五厘  高尾村
 
       金三拾六両永百九拾六文九分五厘  荒井村

右は足立郡高尾・荒井弐ヶ村入会上沼秣場、壱反歩に付き永七拾弐文つゝ高免に御請け仕り、これに依り百姓困窮仕り、草永御上納仕り兼候に付き、草永御引下け願上げ奉り候処に御取上げ御座無く、右不納金厳しく御上納仰せ付け為され候え共、困窮の村方に御座候て御上納罷り成らず是非無く御訴訟申し上げ候、何とそ此以後弐拾ケ年賦壱ケ年に両村にて金三両壱分、永百五拾壱文七分七厘つゝ年々御上納仕り候様に願上げ奉り候段、御慈悲を以て右弐拾ケ年賦に仰せ付け為され下され候はゝ、惣百姓相助かり有難く存じ奉り候、以上
 享保二十年卯十一月


足立郡高尾村     
名主 甚五右衛門㊞
荒井村     
名主 専右衛門㊞


  伊奈半左衛門様
   御役所

(矢部洋蔵家九ーー)


これによると、一反に付き永七二文という重い負担を強いられた農民たちは、すぐに草永の納入に行き詰まり、草永引下げの嘆願書を提出したが、草永の増徴あるいは新田に開発して年貢を増徴しようと意図する幕府は、当然のごとくこれを却下したのである。しかし、毎年のように洪水に見舞われ、特に享保十六年(一七三一)には四月ころからの度々の出水に加え、八月十七日、九月二日には大風雨(『武江年表』)があり、砂入り等により当地の被害も甚大であった。また、翌年は西日本を中心にいわゆる「享保の大飢饉」がおこった年であるが、関東においても河川の氾濫等により「関東一円で凶作により米価暴騰、疫病がはやる」(『武江年表』)といった状況で、各地で強訴・一揆などが多発した。このような状況の中で、「荒川端堤外にて度々水入りに罷成り、殊に近年川通り伐払い仰せ付けられ、別て砂押入り秣一切生立ち申さず、草永上納仕るべく方便御座無く候」と出訴し、同二十年からの高入れを条件に、享保十七年から同十九年までの三か年間草永を免除されたのである。
しかしながら、享保十年から同十六年までの草永合計金ニニ七両三分と永一四文の内、金一五九両二分と永二二八文六分は同二十年までに上納したものの、残りの金六八両と永三五文四分は未だに納入できず滞納となっている。そこで農民たちは二〇か年賦での返納を願い出ている。その結果がどうなったかは資料を欠き不明であるが、荒川下流域に堤外地をもつ笹目領六か村入会地では、町人からの開発願いもあり、草永引下げの嘆願に対し草永を増加させるか高入れをするかの二者択一を迫られ、結局六か村側は享保十八年に高入れ案を承諾し、草永・運上金の滞納分は三〇か年賦で返納するということで一応の解決をみている(『浦和市史』)。また、他の荒川流域の堤外地でもこの時期に次々と検地を受け、高入れが行われていることを考えると、恐らく高尾村・荒井村の場合も二〇か年賦返納が認められ、その後同二十年に上沼新田として高入れされたものと思われる。因に、その時の石高は一四九石四斗八升一合、反別は三一町七反七畝一五歩であった(矢部洋蔵家九一ニ)。

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