北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第3節 水利と土木

1 幕府の治水政策と河川管理

大囲堤(おおがこいづつみ)     
寛永六年(一六二九)の荒川の付け替えによってこれが荒川本流となった。和田吉野川は水量が増し、増水すると流域ではたちまち洪水となって被害をもたらした。付け替え以前にも吉見領や川島領の低地では水害にあっていたようで、慶長年間(一五九六~一六一五)に伊奈忠次が築堤したという相上堤・川島領囲堤の修固などがある。付け替えに伴っては水量が増すことが予測されるため、吉見領の大囲堤や吉見領横手堤などが築かれた。耕地および民家を洪水からまもるために築かれた堤は、高くすればする程対岸地域に被害をあたえることになり、貞享二年(一六八五)六月、忍領の村と下吉見領の村とで起こった争論について幕府の裁許状がある(近世No.一四七)。裁許状は五か条からなっている。
  • 荒川大堤(大囲堤)の外は以前に水開の所として下吉見領の村で土手を築いた。しかし水流の支障になるので上吉見領境から須戸野谷まで削り取り、北際との地形と高さを同じくすること、御成橋より新井新田までは畠の地形に合わせて削ること、水で押切られた所や地形の低い所は土を盛ること。一本杉より須戸野谷までの川岸幅一〇間、御成橋より高尾渡しまでの川岸幅二〇間、高尾渡しより新井新田までは同様に三〇間については葭(よし)を植えてよい
  • 川岸にある家や竹木はそのままにし、以後は新規の家に竹木の囲いをしないこと
  • 忍領小谷村から大芦村までのべ七五五間は、土手の高さを畠と同じくすること。また、中の土手ニー八間は川岸より五~六〇間北へ離し、荒川際の地形と同じくすること。削り取った場所へ土を盛らないこと
  • 馬室村の土手は下吉見領と同じ高さに削ること
  • 小八ツ林村の内、新土手六か所二三〇間余は水の障りになるので削ること
この裁許は、忍領側から新しい土手を築いたと訴えたが、吉見領側では一五年前の新田開発の折りに築かれ、その後、年々修理していると答えたことから争論が起こり、決着がつかないので検使役人の見分の結果作成されたものであった
安永二年(一七七三)十二月、忍領大芦村・中野村外一三か村が吉見領小八ツ林村外二五か村および滝馬室・原馬室・高尾・荒井・玉作村などの諸村を訴えた争論で、原因は吉見領側が川縁に土手を築き、その上に竹木を植えたため、忍領へ水が強く流れて御城囲土手が崩れ、耕地にも被害が生じたということである。また滝馬室は御成橋に土手を築き竹木を植えたことを述べている。いずれも新しく築いた土手は畑と同じ高さに削り、樹木は伐り取ることを訴えている。
訴状を受理した幕府評定所では、関係村に絵図を持参して出頭する旨を命じた。一方、訴えられた吉見領では、以前の裁許どおり樹木を伐払い、高い土手は削り取ることを述べて内済願いを作成している。また、滝馬室・原馬室・高尾・荒井の四か村は、樹木は自然と生えたものであるとし、先の貞享・寛延の争論にも直接関わらなかった。とりわけ高尾・荒井両村は忍領と隔たり、忍領の支障にはならないとしながら、忍領の訴状取り下げを願っている(近世No.一四ハ・一四九)。従って、忍領の訴えは吉見領の村々が主であり、高尾村など四か村は従であった。その結果、内済が成立するが、貞享・寛延の裁許どおりになっている。双方の交わした証文は、忍領・吉見領・石戸領の川通りは高い所は削り低い所は土を盛り、川通りの樹木は民家のない所は伐払い、以後は新しい家を建てない、忍領と吉見・石戸領からそれぞれ一名ずつの水行見回り役を出す、ということなどである(近世No.一五〇)。

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