北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

1 年貢の種類

本途物成
次に示す資料は、代官大熊善太郎から発給された下石戸村新田の年貢皆済目録である。『新記』によれば、下石戸村新田は寛政六年(一七九四)検地、翌七年高入れとなり以後天領(幕府領)であった。この皆済目録には、当新田分としてこの年実際に納められた年貢高が記aされている。そこで、これをもとに江戸時代における年貢の種類について調べてみたい。
  卯御年貢皆済目録
高八斗九升     武州足立郡下石戸上村
反高弐町壱反九畝拾五歩
一 永壱貫六拾八文三分      本途…①
内永九百五拾四文八分   反高
一 永三拾四文          小もの成…②
一 永三拾三文壱分        口永…③
ー 米壱合            御伝馬宿入用…④
此斗立壱合 代永壱文壱分
但、卯冬御張紙値段三両增
米三拾五石ニ付金三拾九両替
ー 米弐合            六尺給米…⑤
此斗立弐合 代永弐文弐分
但、右値段

一 永弐文弐分          御蔵前入用…⑥
納合永壱貫百四拾文九分      包分銀…⑦
  外永壱文
一 永三文            川々国役…⑧
一 永弐文弐分          琉球人国役…⑨
都合永壱貫百四拾七文壱分
右は去卯御年貢本途小物成其外共、書面の通り皆済せしむるに就き、小手形引上一紙目録相渡条重て手形差出とも反古たるべき者なり
天保十五辰年正月大善太郎㊞


右村 名主
   組頭
   百姓代
(『市史近世』No.九八)


資料中①の「本途」とは、田畑や屋敷などの土地に課せられる税で「本途物成」の略である。本資料ては、永一貫(えいいつかん)六八文三分がそれに当たり、その内訳は永九五四文八分が反高二町一反九畝一五歩の畑に対する税である。この反高というのは、新田のうち地味が粗悪、または出水のたびに押し流されるなどの事情により将来高に結びにくい収穫不定の場所をいい、これに反別のみを丈量として低率の租税を課したもので、荒川流域に開かれた当新田などは、まさにこれに該当した。残りの永ーー三文五分は、高に結ばれた(高八斗九升)見付畑(下々畑より生産力の低い悪地をいう)四反四畝一五歩に対する税である。この本途物成は、本年貢或いは御取箇などとも言われ、江戸時代の租税の根幹をなすものである。『地方凡例録』には、「租税と云ハ、俗に取箇(とりか)・成箇(なりか)・物成・年貢などゝ唱る田畑より納る貢物(みつぎもの)のことにして、之を両税と云、即ち秋糧夏税(しゅうりょうかぜい)之なり、偖(さて)此秋糧と云は秋成(あきなり)にて田の年貢を云、夏税ハ夏成(なつなり)にて畑の年貢を云。之を関東にては夏成と称すれども、上方にては三分一銀納と称し、奥州にては半石代と称し、甲州にては、大切(だいぎり)・小切と称して、何れも畑年貢なれども、関東のみ夏成と唱へ、夏分之を取立る、全国に於ては秋成即ち秋糧と一同に之を取立ることなり、云々」(『地方凡例録上』Pニニ九)と述べられている。つまり、本途物成のうち田に課す税を秋糧(秋成)といい米納を原則とし、畑に課す税を夏税(夏成)と称し主に金納であった。しかし、米を代金納したり畑租の一部を物納する場合もあった。金納の場合、永何貫文という表記がよく使われているが、これは明国からの輸入銭である永楽銭のことであり、永一貫文は金一両を意味し、銭では四貫文と公定されていた。この永楽銭は慶長十三年(一六〇八)に通用が禁止されたが、その後も計算の単位としてずっと使われている。その理由は、質が良くそれまで広く流通していたことに加え、金は一両が四分、一分が四朱というように四進法であるため、計算の便宜上、一〇進法である永が用いられたのである。       

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