北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

2 年貢の割付から皆済まで

年貢割付
年貢の賦課は、検地帳をもとに領主が年貢割付状を村に発給することから始まる。その前提となる各村の年貢高は、初期には、毎年検見役人が来村し「坪刈り」を行い実際の収穫高(豊凶)を調べて決めていた(「検見法」という)が、十七世紀末ごろになると、村々では来村役人の接待費節減の意味からも年貢額の固定化(「定免法」という)を要求するようになった。一方、幕府では徳川吉宗によって、享保改革の年貢増徴政策の一環として定免法を採用し、以後一般的に行われるようになった。両者の得失については、それぞれ一長一短があり評価は一様ではなかった。たとえば、『民間省要』の著者である田中丘隅(たなかきゅうぐ)は、「聖君時を得て、是より定免と成らば万代不易の法を残し、上安く下穏に、官吏の罪もなく、民間の悩にもあらじ」と説いて、領主にとっても、農民にとっても、定免制が最善の法であると述べている。これに対して、享保時代(一七一六~三六)の代官で、のちに勘定吟味役にまでなった辻六郎左衛門は、その「上書」の中で、定免の規定によると凶作の被害が四〇パーセントを越さないと破免を認めない(享保十九年には三〇パーセント以上に改定)ため、それ以下の被害のとき農民の被る損害は大き<、特に悪田を多く持っている下層農民にとっては減免の認められない定免制は迷惑だと述べている。
ともあれ、年貢高が定められると、領主・代官から各村へ通知されたが、この納税通知書を年貢割付状または免状という。記載形式は、一般的には、最初に村高・総反別・国郡村名を掲げ、次に内訳として、上田から下田へ、上畑から下畑へ、そして屋敷地の順にそれぞれの反別と年貢額を記載する。そして、そのあとに田畑の年貢総額を納合米・永として示し、次に納入期限までに必ず皆済すべき旨の文言を記し、最後に発給年月日を記し、その下に発給者名を記して印判が捺され、奥隅に「名主百姓中」あるいは「名主・組頭・惣百姓」などと宛書きしている。しかし、必ずしも一様ではなく、また年代による差異もあるようである。
次に示す年貢割付状は市域に残る最古のもので、慶長十五年(一六一〇)ごろのものと思われる。
  鴻巣領宮内上下共戌御年貢取割付の事
ー 米二百六拾壱表(俵)七升壱合納むべき者なり
一 永楽参拾弐貫五百拾七文同
右は当月中皆済有るべき者なり、仍って件の如し
 戌十一月七日     北河作七(花押)
            秋山長吉(花押)
  右の百姓中

(大島隆三家二七)


内容は、表題の次に田方、畑方の総年貢額だけを掲げ、十一月中に皆済すべきことが書かれているだけの非常に簡単なものである。そして、発給者と宛名の位置関係が、後世のものとは大きく異なる。つまり、宛名は「右の百姓中」となっているが、差出人より上部に書かれている。現在ではごく当たり前の事であるが、近世においては一般的形式ではなく、天領では寛永(一六二四~一六四四)後期ごろからその位置関係が逆転し、差出人の代官名を日付の下に大きく書き、宛名の名主百姓を文書の奥隅に小さく書くようになるのである。その背景には、幕藩体制の確立による階級制の強化ということが考えられる。このような高圧的な傾向は幕末に向かうほど顕著になり、市域においてもこの事は同様である。

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