北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

3 中・後期の荒井村の年貢

近世中・後期の農村社会は、寛文・延宝期(一六六一~八ー)にほぼ成立したといわれる江戸時代の農業生産の基礎単位である小農民による経営が徐々に解体していく過程といえる。その原因としては様々なものが考えられるが、まず内的要因としては農村への貨幣経済の浸透があげられる。本来自給自足を原則とする近世封建社会ではあるが、その当初から畑地や屋敷地の年貢が金納化されていたり、特に享保期(一七一六~三六)を中心とした新田開発に伴う秣場の減少によって干鱸(ほしか)に代表される金肥への依存度が高まるなど、農民たちは農業経営を維持し年貢を納入するためには必然的に貨幣経済に巻き込まれざるをえないという自己矛盾を内包していたのである。そして、この自己矛盾が一気に露呈したのがこの時期であり、享保改革に至る根本原因もここにある。さらに外的要因としては、相次いで農村を襲った自然災害の発生と限界まで搾取しようとする幕藩領主による年貢増徴策などがあげられる。特に中期以降は不思議と大洪水などが相次ぎ、享保以降幕末まで七〇回余の水害が記録されている。中でも関東では寛保二年(一七四二)の大洪水、天明三年(一七八三)の浅間山噴火とその後の度重なる大洪水(➩天明の大飢饉)、文政四年(一八ニー)の大旱魃(かんばつ)、天保期の連年の洪水と冷害(➩天保の大飢儼)などは、この地に特に大きな被害をもたらした。これらは、単にその年の収穫を無にしただけでなく、耕地そのものの生産力を低下させたり、用排水設備を破壊するなど、弱小な小農民経営に極めて大きな打撃を与えた。
表28は荒井村における宝暦~天明期(一七五一~八九)における年貢皆済目録をもとに作成したものである。田方・畑方・山方・夫金・薪代の順に年貢高・納辻(おさめつじ)(実際の納入高)を載せ、備考欄には諸記録に見える自然災害のうち主なものをあげてある。また、田方納辻欄の比率は、年貢高に対する割合を表す。これをみると毎年のように洪水をはじめとした自然災害に見舞われているが、このうち洪水の多くは旧暦の六月から八月(新暦は約ーか月遅れ)にかけて日本に襲来する台風のもたらす大風雨によるものである。中でも、宝暦七年(一七五七)、明和三年(一七六六)、安永元年(一七七二)、同九年天明三年(一七八三)、同六年などの被害が特に大きかったことがわかる。一方、「旱(ひでり)に不作なし」といわれる関東ではあるが、宝暦十年(一七六〇)、明和七年(一七七〇)、天明五年(一七八五)などは旱魃による凶作である。これらの被害状況については、表28の田方納辻などの実際の数字からも窺(うかが)い知ることができる。また、この期間に限っても、明和三年(一七六六)・同四年・同五年・同六年と天明五年(一七八五)・同七年については、年貢皆済目録の発給は二年後になっており被害の大きさとそれを負担する農民の苦悩の大きさを表しているともいえる。中でも被害が特に大きかったのは天明三年七月の浅間山大噴火の被害であった。遠隔地の県域でも降灰とその影響が大きかった。
表28 年貢皆済目録にみる荒井村の年貢
内訳
年 月
田 畑 山方納辻 夫金納辻 薪代納辻 備 考 
年貢高 納辻(%) 年貢高 納 辻 
宝暦4年(1754) 
   戌3月
酉 117俵1032 94俵0015(80.2) 申酉4両1分 & 815文(夫金・薪代2年分)  
  5 年(1755)
   亥3月 
戌 117俵1032 101俵1695(86.5) 酉 86両2分
京 144.6文(畑方・山方・原発御年貢を含む)  
  6 年(1756) 
   子3月 
亥 117俵1032 103後3450(88.5) 関束水害・綾瀬川縁被害(産社祭礼帳)  
  7 年(1757)
   丑4月  
子 117俵1407 117俵1407( * ) 戌 86両2分
  京144.6文(畑方・由方・原発御年貢を含む)   
亥 永1貫 63.3文 亥 鐚5貫100文 4-5関東大洪水(武江年表)  
亥 86両2分
  京I44.6文(畑方・山方・原発御年貢を含む)      
子 永1貫 63.3文 亥 鐚5貫100文 
  8 年(1758) 
   寅
旱害 
  9 年(1759) 
   卯11月 
卯 117俵1407 87俵0023(74.1) 卯 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
  10年(1760) 
   辰 
旱害 
  11年(1761) 
   巳2月 
辰 117俵1407 62俵2720(53.4) 辰 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
辰 永1貫63.42文 綾瀬川出水、6月土用より秋まで大水(産社祭礼丁) 
  12年(1762) 
   午 
下間木村では5~9月に18度出水(伊藤家文書) 
  13年(1763) 
   未 
明和元年(1764)
   申 
  2 年(1765) 
   酉3月 
申 117俵3171 117俵3171( * ) 申 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
未 金5岡
京 403文 
未 永1貫63.16文 未 鐚5貫100文 
  3 年(1766) 
   戌3月 
酉 117俵2881 117俵2875( * ) 酉 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
申 金5両
京 403文 
申 永1貫63.16文 申 鐚5貫100文 7 関東大洪水(武江年表) 
  4 年(1767) 
   亥 
5 荒川出水(出水控書) 
  5 年(1768) 
   子3月 
戌 117俵2881 43儀1794(36.9) 戌 81両1分
京742.6文 
80両2分
京 142.6文 
酉 金5両
京 403文 
酉 永1貫63.16文 酉 鐚5苴100文 7 入間郡の各河川大洪水(県史6) 
  6 年(1769) 
   丑4月 
亥 117俵2875 103俵1975(87.8) 亥 81両1分
京742.6文
81両1分
京 742.6文 
戌 金5両
京 403文 
戌 永1貫63.16文 戌 鐚5貫100文 8 大風雨 
  7 年(1770) 
   寅5月 
子 117俵2875 97俵3623(83.1) 子 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
亥 金5両
京 403文 
亥 永1貫63.16文 亥 鐚5負100文 
  8 年(1771) 
   卯3月 
丑 117俵2875 103俵0265(87.5) 丑 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
子 金5両
京 403文 
子 永1貫63.16文 子 鐚5貫100文 5 — 8諸国大旱魃、稲の耕害虫多し(武江年表) 
安永元年(1772)
   辰 
8 大洪水(見沼代用水沿革史) 
  2 年(1773)
   巳3月 
辰 117俵2395 52俵0771(44.3) 辰 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
卯 金5両
京 403文 
卯 永1貫63.16文 卯 鐚5貫100文 8 関束大洪水(武江年表) 
  3 年(1774)
   午3月 
巳 117俵2395 114俵2897(97.3) 巳 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
辰 金5岡
京 403文 
辰 永1貫63.16文 辰 鐚5貫100文 
  4 年(1775)
   未4月 
午 117俵2220 117俵2220( * ) 午 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
巳 金5両
京 403文 
巳 永1貫63.16文 巳 鐚5貫100文 8 — 9荒川洪水(水害年譜) 
  5 年(1776)
   申3月 
未 117俵2220 71俵0671(60.5) 未 81両1分
京742.6文 
81両1分
京 742.6文 
午 金5両
京 403文 
午 永1實63文 午 鐚5貫100文 
  6 年(1777)
   西 
  7 年(1778)
   戌4月 
酉 117俵2045 104俵2276(89.0) 酉 81両
京316.6文 
73両2分
京 706.6文 
申 金5両
京 403文 
申 永1貫63.16文 申 鐚5貫100文 荒川洪水(荒川上流改修60年史) 
  8 年(1779)
   亥4月 
戌 117俵2045 88俵0532(75.0) 戌 81両
京316.6文 
81両
京 316.6文 
酉 金4両3分
京 894文 
酉 永1貫63.16文 酉 鐚4貫962文 
  9 年(1780)
   子5月 
亥 117俵2034 104俵0508(88.6) 亥 81両
京316.6文 
81両
京 316.6文 
戌 金4両3分
京 890文 
戌 永1貫63.16文 戌 鐚4貫962文 8 大風雨洪水(武江年表) 
天明元年(1781)
   丑 
6 利根川・荒川・神流川など大洪水(武江年表) 
  2 年(1782)
   寅
6 — 7 荒川筋大洪水(水害年譜・他) 
  3 年(1783)
   卯5月 
寅 117俵2034 107俵3295(91.8) 寅 81両 81両 丑 金4両3分
京 890文 
丑 永1貫63.16文 丑 鐚4貫962文 7 荒川筋大洪水、川島領大囲堤決壞(川島郷土史) 
  4 年(1784)
   辰5月 
卯 117俵2034 37俵0693(31.6) 卯 81両 52両1分2朱
京 16文 
寅 金4両3分
京 890文 
寅 永1貫63.16文 寅 鐚4貫962文 7 浅間山噴火 関東大洪水(武江年表) 
  5 年(1785)
   巳5月 
辰 117俵2034 76俵l732(65.1) 辰 81両81両 卯 金4両3分
京 890文 
卯 永1貫63.16文 卯 鐚4貫962文 春~夏に諸国飢饉、疫病流行(武江年表) 
  6 年(1786)
   午 
夏~秋旱魃、凶作となる(武江年表) 
  7 年(1787)
   未5月 
巳 117俵2005 59俵0724(50.4) 巳 81両 81両 辰 金4両3分
京 891文 
辰 永1貫63.16文 辰 鐚4貫962文 7 関東大洪水関東大飢微(武江年表) 
午 117俵2005 20俵0914(17.2) 午 81両 76両2分
京 614文  
巳 金4両3分
京 891文
巳 永1貫63.16文 巳 鐚4貫962文 6 大風兩のため川々満水、畑囲堤決壊(水害年錯) 
  8 年(1788)
   申 
寛政元年(1789)
   酉5月 
未 117俵2005 103俵1437(88.0) 未 81両 80両
京 264文  
午 金4両3分
京 891文
午 永1貫63.16文 午 鐚4貫962文 
申 117俵2005 117俵2005( * ) 申 81両 81両 未 金4両3分
京 891文
未 永1貫63.16文 未 鐚4貫962文 

注1 表記方法-117 俵2180は、117俵2斗1升8合を表す(*は、100%)。また、年貢高の数字の変動は、改出(あらためだし)や荒地引(あらちびき)、欠米(かけまい)の有無などによる
 2 備考欄は主な自然災害の発生状況を表し、数字は月を表す
 (矢部洋蔵家文書 年貢皆済目録より作成)


七月六日~八日を中心に降った灰の量は、秩父郡で四~五寸(一五センチメートル位)、県北で二~三寸(九センチメートル位)、県南で一寸(三センチメートル位)ほど積もったという。この降灰による被害と川床の上昇による洪水に加え、冷害が重なり作物は壊滅的打撃をうけ、いわゆる「天明の大飢饉」を引きおこし、各地で打ちこわしが発生した(『県史資料編一三』Pー〇ー〇)。幕府も武蔵・上野・信濃の三国に救済令を発し罹災者の救助を行ったり、翌四年熊本藩主細川重賢に御手伝普請を命ずる(『徳川実紀』)など復旧に力を入れた。市域の被害状況を後掲の表28でみると、定免期間中にもかかわらず田は七割の減免でほぼ壊滅状態、畑は四割弱の減免となっている。また、表を見てもわかる通り、畑の減免はあまり例がなく、それ自体異例中の異例である。そこで、天明三年九月「卯砂降検見帳」(矢部洋蔵家ー三六六)により、その部分についてさらに詳しくみると、畑八五町一反三畝二〇歩、原五反九畝三歩、計八五町七反二畝二三歩の内、検見の結果、皆損が二四町六反六畝八歩(二八・八パーセント)、八分損が六町七反九畝ー八歩(七・九パーセント)、七分損が九町八反二畝一八歩(ーー・五パーセント)、六分損が一五町八反八畝ー九歩(ー八・五パーセント)、五分損が二七町五反五畝二〇歩(三二・ーパーセント)で、本途(減免なし)はわずかに一町歩(一・二パーセント)となっている。減免理由をみると「砂降引」が九割以上を占め、残りは「水入引」である。領主にとって、年貢の減免を認めるということは収入減を意味し、直ちに生活を脅かすことになり、安易には認めないのが常であるが、これほどの減免を認めざるを得なかったのは、被害がいかに甚大であったかを示している。
この天明三~四年のききんの打撃から立ち直れないうちに、翌天明五年(一七八五)にも旱魃が襲い、さらに同六年にはふたたび大洪水に見舞われた。この年は「七月十二日より別して大雨降り続き、山水あふれて洪水となれり、(中略)関八州近在近国の洪水はことに甚だしく、筆舌に尽くしがたし」(『武江年表』)の状況で、関東一円は大凶作となった。荒井村における同年の田方納辻は、定免高ー一七俵余に対して二〇俵余(一七・二.パーセント)と表中の宝暦期~天明期で見る限り最低の数値を示しており、被害の大きさを裏付けている。このような天明三年以来の不作続きの中で、当然年貢納入にも支障をきたし、当該年度分は勿論、前年度分も皆済できないほどの状況であった。一方、米価は一両に付き一斗八升という未曽有の価格(通常の約五倍)に暴騰し、加えて江戸市中では米穀が払底し、翌七年には大規模な打ちこわしが発生した。
その後も、上下をあげての必死の治水工事を尻目に河川は氾濫を繰り返し、その度ごとに大きな被害をもたらした。主なものでは、寛政三年(一七九一・同五年・享和二年(ー八〇二)・文化五年(ー八〇八)・文政六年(ー八二三)・同七年・同十一年・天保四年(一八三三)・同六年・同七年・弘化三年(一八四六)・嘉永二年(ー八四九)・安政六年(ー八五九)などがあげられる。また、その間に大旱魃が何度も襲っている。これらの状況に加え、領主財政悪化の中で、後期の荒井村の年貢納入がどのような状況を呈するのか、大変興味のあるところであるが、旅本領の宿命か、或いは単に資料が散逸してしまったためか、市域には資料を欠き不明である。そこで、江戸時代後期の様子について、少し別の角度から考察してみたい。
幕府は享保六年(一七ニー)以降、六年ごとに全国の人口統計の作成を命じたが、その調査結果をもとに武蔵国についてまとめたのが表29である。それによると、人口は中期以降漸減し、天明六年(一七八六)には享保六年の八五・五パーセントと最低値を示している。市域について下石戸上村の資料でみると、寛保三年(一七四三)の四四二人・九四軒から漸減し、ー〇〇年後の天保十一年(一八四〇)には三二二人・七三軒と、人数でー二〇人(二七・一パーセント)、家数でニー軒(ニニ・三パーセント)の減少となっている。このーニ〇人の中には奉公稼ぎなどによる転出も含まれていると考えられるが、家数の二一軒は潰百姓(つぶれひゃくしょう)の数である。しかも、寛保三年の「御改人別帳」(吉田眞士家 七八)を見ると、同村喜右衛門の伯父である伝右衛門(五八歳)の欄には「同村七郎右衛門所へ居跡遺し申候」と記されており、同村の潰百姓七郎右衛門の跡地に新たに本百姓として取り立てられたことがわかる。同帳には、このような例が他に六例みられ、吉平(三九歳)は下石戸下村、七郎兵衛(三九歳)・長四郎(五七歳)は高尾村、庄右衛門(四八歳)は石戸宿、そして平六(四九歳)は上川田谷村(桶川市)、平吉(二九歳)は樋詰村(桶川市)において、それぞれ潰百姓の跡地に入百姓として取り立てられている。このようにみてくると、このニー軒という数字は潰百姓の跡地に村内外から新規に本百姓を取り立てても、なおかつ補充できなかった数ということができる。したがって、下石戸上村における実際の潰百姓の数はもっともっと多くなるはずである。
表29 武蔵国及び下石戸上村における人口の推移,
武 蔵国 下石戸上村 
人 口 百分比 人口(家数) 
享保6年(1721)1,903,316100.0
  11年(1726)1,800,78394.6
  17年(1732)1,850,59997.2
元文3年(1738)1,737,20591.3
寛保3年(1743)442(94)
延亨元年(1744)1,787,02193.9
寛延3年(1750)1,771,21493.1
宝暦6年(1756)1,774,06493.2
  12年(1762)1,737,15891.3
明和5年(1768)1,753,99492.2
安永3年(1774)1,707,71989.7
  9 年(1780)1,702,78489.5
天明6年(1786)1,626,96885.5
寛政4年(1792)1,634,04885.8
  10年(1798)1,666,13187.5
文化元年(1804)1,654,36886.9
  7 年(1810)1,674,66987.9364(85)
  13年(1816)1,675,30088.0367(82)
文政5年(1822)1,694,25589.0
  11年(1828)1,717,45590.2334(79)
天保5年(1834)1,714,05490.1
  11年(1840)322(73)
弘化 3年(1846)1,777,37193.4

注 武蔵国については、関山直太郎『近世日本の人口構造』より転載   下石戸上村については、人別改帳による

その中で、一例として文化九年(一八一ニ)に潰百姓となった太右衛門について「分散帳」(吉田眞士家四八三)をもと調べてみると、まず、借用金は高尾村の佐次郎からの七両三分九二文をはじめとして、二八人からの二八両二分二朱二貫五六八文であった。他に年貢未進金が三両一分八九〇文、小作金の未納が三両一貫四〇〇文、無尽掛金が二名分で一両一分、都合三六両二朱四貫八五八文となっている。そして、その返済のために財産処分を決意したわけであるが、持畑三反四畝一四歩のうち各一反歩を年貢未進金・無尽掛金・小作金の返済に充て、残りの畑三畝一四歩は一両で売却、屋敷地ー畝歩は居宅ともども一両一分で売却した。さらに、家財道具も二朱ですべて売却し、それらの代金二両一分二朱が借金の返済に充てられた。これを借用金高で除し、貸主への返金は金一両に対し銭八一文九分ー厘の割合で行われた。その後、太右衛門一家がどうなったか、また借金の不足分についてはどうなったか等については不明であるが、恐らく離村の道をたどったものと思われる。さらに、このように没落に至らないまでも、その予備軍ともいうべき年貢未納者はたくさんいる。文化十年(ー八一三)の「御未進金改年賦御上納并潰百姓御上地願連印帳」(吉田眞士家 四三八)をみると、潰百姓四人の他に年貢滞納者ニ二名の名前が見え、未進金総額はーーー両余になっている。彼らはこの未進金を年賦で返済することを願い出ており、年限は金額の多少や困窮の度合いによって三年~二〇年となっている。その内訳は、二〇か年賦ー二人、一五か年賦三人、ー〇か年賦三人、七か年賦一人、五か年賦一人、三か年賦二人である。その中の一人与右衛門の未進金はー九両余に達しており、二〇か年賦での返済を願っている。また、伊之助は一両二分余であるが、やはり二〇か年賦返済を願い出ており、年貢を納める農民にとっても、受け取る領主にとっても苦しい台所である。このような状況の中で、彼らの中の少なからざる人たちが、結局経営不能に陥り、潰百姓―他出奉公(あるいは欠落)―離村という道をたどり、それがこの時期の村々における人口の減少傾向となって現れてくるのである。
一方、荒井村については資料を欠き不明であるが、嘉永六年(一八五三)の領主牧野氏の本家への嘆願書(矢部洋蔵家 二八六)の中で、「(前略)其の上引続き近年違作仕り、三拾ケ年以来両村にて潰れ百姓弐拾軒余も出来、村方殊の外困窮一同凌ぎ方難渋仕り居候(後略)」と述べている。つまり、連年の凶作等により村々は疲弊(ひへい)し、この三〇年間に荒井村と小泉村(上尾市)の二村で潰百姓がニ〇軒余にも達したほどであるとその窮状を訴え、拝借金を願い出ているのである。こうした傾向は下石戸上村や荒井村に限らず、関東地方をはじめとして度重なる凶作にみまわれた東北地方、さらには江戸に匹敵する大都市大阪を抱えた近畿地方に共通してみられるものといわれる(『近世日本の人口構造』関山直太郎)。
このように解体の兆しをみせてきた農村社会に対し、領主たちはその根源である年貢に手をつけることは全く考えず、逆に領主財政の逼迫(ひっぱく)から年貢先納や御用金など様々な名目で搾取は強化されていった。しかし、農民たちのぎりぎりの生活まで破壊してしまうことは是が非でも回避しなければならず、緊急の場合には救済の手を差し延べることも必要であった。一方、農民たちも夫食拝借等によって急場を凌(しの)ぎながら、先祖伝来の土地を必死で守ろうとした。例えば、天保八年(ー八三七)三月の「夫食拝借人調帳」(吉田眞士家 四四一)によれは、このとき下石戸上村で四四軒・一五三人が夫食拝借を願いでている。当時の下石戸上村の家数は七五軒余であるから、半数以上の農民が借財に頼らねばならないほどの困窮状態であったことがわかる。この年は、天保四年からのいわゆる「夭保の大飢饉」により諸物価は高騰し、困窮人が増加し人心は動揺していたときであり、二月には大坂で大塩平八郎の事件がおこり、各地で打ちこわしなどが頻発していた年でもある。このとき実際に貸与された者は、困窮の度合いを吟味して二八軒・九一人で総額八両一分二朱四三九文であった。この内半分は施金であり、残りの半分が貸金であった。そして、これとは別に村の有力者ー二名から、特に困窮しているニー軒・六三人に対し七両三分二朱の施金がなされ、さらに名主吉田徳太郎からも二四軒・七四人(内三軒・ーー人は近隣の者)に四両一分の施金が出されている。農民たちは、このようにして夫食拝借などにより何とか食いつなぎ、収穫のときを待ったのである。
このように、近世中・後期においては、打ち続く自然災害や搾取の強化等により退転を余儀なくされた百姓は増加の一途をたどり、農村の荒廃・貧窮化はますます進行していったのである。そのような中で、年貢納入についても混乱を生じ、未進金の増加や年賦返済、相次ぐ年貢先納等により一年ごとに年貢皆済目録を発給することは不可能となり、これが後期になるにつれて年貢皆済目録が姿を消していく最大の原因と考えられる。

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