北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

4 地頭賄いについて

幕末期の県域の旗本知行高は三一万四五二〇石余で全石高の約三五パーセント、村数は八四七か村で全村数の四二パーセントに分布し、旗本数は五八二人となっている(『埼玉史料辞典』)。
彼らは江戸に住み、知行所からあがる年貢米を換金し生活に必要な諸品の購入資金に宛てていた。したがって、当初から自給自足の生活を行うことは不可能であり、江戸での生活は好むと好まざるとに係わらず彼らを商品貨幣経済の渦中に直接巻き込んでいった。その上、生活は次第に奢侈なものへと流れ、米価の変動や天災等による収入の不安定さに加え、物価の高騰などにより支出は増加の一途をたどった。さらには、役付きによる赴任や婚姻・葬式・天災などの臨時出費等も多く財政の窮乏化に拍車がかかった。その結果、商人への依存度はますます高まり、この傾向は幕末になるにしたがって一層顕著になっていった。
このように財政の窮乏化が進む中で、市域に知行所を持つ旗本たちも年貢増徴政策を推進し、険約に励む一方で、①公金貸付の利用、②知行所相手の頼母子講の主催、③江戸や在方の商人・座頭・富農などからの借上、④村々への上納金や先納金の賦課、等々により何とか財政を補おうと努力した。
例えば①の公金貸付策は近世初期より行われているが、寛政四年一七九二)勘定奉行取扱いの貸付けが行われるようになってからは広く利用された。文化十四年(ー八一七)には、幕府の公金貸付額は二三五万二六二四両(未調査分を含めると三〇〇万両余と推定)にのぼり、うち万石以下の旗本などへの貸付は四五・四パーセントを占めニニー〇人が利用し、一人平均四八三両を借りている(「幕府経済の変貌と金融政策の展開」竹内賊『日本経済史体系四』)。因(ちなみ)に、石戸六か村を知行する牧野八太夫の同十年(ー八一三)における公金の借受額はニニ五両となっている(吉田眞士家四三七)。
②の頼母子講は、もともと庶民の金融機関として発展したものであるが、旗本自身が講元(主催者)となって知行所農民を相手に行う場合もあった。牧野氏も行っていたことが村方からの嘆願書などからわかる。しかし、講元の権利として最初にまとまった金額を受け取ったあと掛金を出さないなど知行所農民との間で争論に発展することもしばしばあった。
次の③・④については枚挙に遑(いとま)が無い。享保三年(一七一八)の史料(矢部洋蔵家一〇一八)によると、荒井村の領主である牧野氏は宝永五年(一七〇八)郷地村(鴻巣市)の只右衛門から四か年賦の約束で九〇両を借用した。ところが、約束の期限を五年以上過ぎた今日までに四七両一分しか返済できず、何度催促しても一向に埒(らち)が明かないということで只右衛門から訴えられてしまった。そこで牧野氏側では知行所の荒井村に対し、滞金の肩代わりを命じたのである。その結果、滞金四一両三分は荒井村で一時立替えて只右衛門へ返済し、後日年貢から差し引くことにしたのである。また、天明七年(一七八七)領主牧野林右衛門が代替わりに際して荒井村名主矢部平兵衛に宛てた「申渡書」(矢部洋蔵家一三五二)の一節には、「ー、此度暮し方諸方諸勘定帳面崎山弥五右衛門書上げ今般披見せしめ候処、此上他借等相増候ては済難く候、返金済シ方之儀知行所村々未進金を以て相片付け候様致す可く候、猶又弥五右衛門へ相談し申す可く候、此旨急度申し付け候、以上」とある。天明七年は、前項のように同三年以来の大飢饉が続いており、領主にとっても収入減を補うため商人等からの借金は嵩む一方であった。それは農民にとっても同じで、連年の凶作により年貢の未進金(滞納金)や借金は増大の一途をたどった。そのような状況の中で、年貢未進金で領主の借金を返済せよという非情とも思える命令が出されたのであり、農民の苦悩は計り知れないものがあった。逆にいえば、それほどまでに領主財政が逼迫(ひっぱく)していたということでもある。さらに、安政二年(ー八五五)十月二日には、いわゆる「安政の大地震」により牧野鉄次郎の屋敷の門が倒壊し、その再建のために二五両の借上げを命じられ上納した。しかし翌年五月には、工事も七~八分はできたが財源不足のため未だに竣工できない状況なので、あと三〇両何とか調達し上納してほしいと出金を迫られている(矢部洋蔵家二ニニ一・ニニ二六)。また、同四年の資料(矢部洋蔵家六一四)によると、領主の牧野氏は、丹波屋五郎兵衛より五〇両を月二分の利率で借用した。しかしその返済も滞り、証文の書換えに際し、村方から「万一地頭所より下げ金これ無く候節は私共村方引請を以て相違なく返済仕り、各方へ聊も御苦労相懸申間敷候」との一札を入れている。同様の例として次に資料を一つ紹介する。

 一 元金五〇両也     但し無利足
右は去未年六月中主人鉄次郎勝手向要用に付、知行所荒井村小泉村役人共引受けにて借用致され候処、返済方相滞り今般寺社奉行所へ御出訴相成候処、右御差日以前示談御掛合い行届き左の通り
     元金五拾両   但し無利足
      返済方
     金拾五両    当金渡
     同拾両     当酉ノ十二月晦日返済
     同弐拾五両   来戌年より寅年迄五ケ年之間毎暮金五両つゝ返弁
    メ同五拾両
右期月之通り聊も遅滞無く返弁申す可く候、最も今般格別御勘弁之上書面の通り返済方御承知下され候上は、此上如何体の吉凶これ有り候共聊も御約定相違致す間敷候、後日の為一札仍て件の如し
             牧野鉄次郎内
     文久元酉年六月十七日
山本丈三郎印
         高松御坊
(裏書)
  表書之通り相違御座無く候
        牧野鉄次郎印

(矢部洋蔵家二五六九)


この資料によると、安政六年(ー八五九)荒井村の領主牧野鉄次郎は勝手向きに差支え、荒井・小泉両村役人引受けということで高松検校から五〇両を無利息で借用した。しかし、返済が滞り寺社奉行所へ訴えられる羽目となり、慌てて掛合ったところ年賦返還ということで示談が成立した。そこで、牧野氏の用人から高松検校へ一札を入れ、鉄次郎が裏書きしたものであり、牧野氏の台所事情が窺がわれる。
④の先納金とは、知行所村々にその年の年貢金を収穫以前に上納させるもので、享保以降頻繁にみられた。天保四年(ー八三三)の荒井村の資料によると、この年領主の牧野氏から荒井村に対して勝手向き不如意により二〇両の先納金を命じられた。しかし工面することができず、結局川田谷村(桶川市)の甚左衛門から月一分の利率で八月中に返済するという条件で借用し上納した。そして、もし期月になっても返済できない場合は、その引当として、元利とも完全に返済しきるまでの間、越石および流作場の年貢を甚左衛門方へ納入するという一札を入れている。
これらの事例からもわかるように、旗本の財政補塡政策の多くは、結果的には借金の返済を村方に転化するものにすぎず、知行所村々の負担を増大させるのみで根本からの財政立て直しにはならなかった。このような現実の中で、村々に対する際限のない負担の強要に歯止めをかけるため、旗本財政を村々で管理する「地頭賄」が登場するのである。地頭賄とは、年の始め又は前年度末に、予想される一年間の収入をもとに月々の支出額を取り決め、毎月その額を村方あるいは年貢を抵当に立替えを依頼した金主より旗本へ仕送りするのである。たとえば、正徳四年~享保三年(一七一四~一八)の五年間にわたって荒井村の年貢は全て近江屋市兵衛・大谷弥右衛門方へ納入され、小手形なども両名の名で発給されている(矢部洋蔵家一二六九)。これは「地頭賄」なのか、或いは牧野氏の甲府勤番拝命に伴う単なる便宜上のことなのか、さらに両名が牧野氏の財政にどの程度深くかかわっていたのか、今後解明していかなければならない。何れにしても、このときは享保四年に再び元に戻しているが、荒井村においては、その後幕末になり再び村方による「地頭賄」が行われている。
次に下石戸上村について、文化十年(ー八一三)二月の「御借用金并申十二月御払残金并酉年納金改帳」(吉田眞士家四三七)をもとに概観してみたい。この史料には牧野家の負債額と貸主、および前年度の支払い残金と相手先、知行所からの具体的な納入計画と支出見込金などが記されており、いわゆる「御仕法帳」と考えてよい。それによると、石戸六か村(下石戸上村・下石戸下村・石戸宿村・上川田谷村・樋詰村・下日出谷村)の領主である牧野八太夫の文化十年(一ハー三)段階における借財の総額は一五二六両余に達している。その内訳は知行所からの借財が二六八両余、江戸馬喰町の公金貸付方役所(郡代所と書いてある)・商人・有力農民などからの借財が九二五両余、申(文化九年)十二月の支払い残金が三三三両余となっている。これに対し石戸六か村から牧野氏に納入される月々の暮方金は三三ー両二分が計上されており、その内訳は次の通りである。
①御表五〇両三月(五両)・五月(三両)・七月(一二両)・九月(一〇両)・十二月(二〇両)
②奥様方二七両七月(三両二分)・十二月(ー三両二分)
③御給金六二両二分 三月(三一両一分)・七月(一五両二分二朱)・十二月(一五両二分二朱)
④御付届二三両七月(ーー両)・十二月(ー二両)
⑤御台所入用一六九両毎月一三両ずつ(含閏十一月)
これを月割金として納入するわけであるが、月々の内訳は一月・二月・四月・六月・八月・十月・十一月・閏十一月が各ー三両ずつ、三月が四九両一分、五月が一六両、七月が六五両二朱、九月が二三両、十二月が七四両二朱となっている。この他に、借財の年賦返済金や利子等も含めると三九四両三分二朱が必要であり、歳出総額は七二六両一分二朱となる。これに対し六か村からの歳入総額は六六八両余であり、当初から五八両余の赤字が見込まれている。このように、天災等による収入減などは一切考えないとしても、歳入の二~三年分に匹敵する莫大な借財を抱え、さらに赤字財政による借財が雪だるま式に膨れ上がっていくことも予想され、旗本財政はいわゆる、”火の車“であったということができる。しかも現実には、これ以外に前述のような役付き・結婚・葬式・天災などに伴う臨時の支出金を強要されることが頻繁にあった。下石戸上村分について、現存する史料からそのいくつかを拾ってみると次のようなものがある。
  • 「高誠院様御葬送諸懸り書上帳」文化九年(一八ー二)(近世No.二)
  • 「西御丸御炎焼につき御用金御地頭様御屋鋪囲竹木御用金割合帳」天保九年(ー八三八)(近世No.三)
  • 「領主牧野様御番入上納金割合帳」嘉永六年(ー八五三)(近世版No.五)
  • 「異国船渡来御武備御用金割合帳」嘉永六年(ー八五三)(近世No.三二)
これらはほんの一例であるが、どの村々においても状況は同じである。
このような状況の中にあって、旗本領において領主と農民の間を取り次ぎ直接支配に携わったのは旗本の用人たちであった。彼らの中にはその立場を利用し不正を働く者もあったが、そうでない場合においても知行所村々の不満をもろにぶつけられ、用人の糾弾・追放運動へと発展していくケースが各地でみられた。ここでは、荒井村における嘉永三年(一八五〇)と安政七年(一八六〇)の用人排斥運動を紹介する。
まず、嘉永三年六月の領主牧野氏の用人を勤めていた崎山兵司という者に対し、荒井・小泉両村農民から排斥運動がおこされ、当の牧野氏やその本家を飛び越えて大本家へ嘆願書がだされた(矢部洋蔵家二七八・二七九)。それによると、①荒井村領主の牧野家では天保七年(ー八三六)に先代寛十郎が亡くなり、その子鉄次郎が家督を相続したが、以来頻繁に不意の御用金を課せられ、その額はこの一五年間に崎山氏の頼母子講掛金も含めると荒井・小泉両村で六五五両余に達した。その中にはお金の工面がつかず、止むなく道祖神山の木を売り払いやっとのことで調達したニ〇両も含まれている。②同じ四月には、殿様が御乗出になられるということで両村で五〇両を至急上納せよと命じられ、やむなく請書を提出したが、困窮村故いまだに工面出来ない状況である。にもかかわらず、それとは別に鎮守の森の杉木を引当にして五〇両他借して上納せよとのきついお達しがあった。しかし、杉木の買い手もなく、今だに調達できないような状況である。③この上役入りにでもなったら、どれほどの御用金を課せられるか計り知れず、両村とも立ち行かなくなってしまう。ということで、この一五年間の実情を十分お取り調べの上、これまでに上納した分(①)については止むを得ないが、現在上納が滞っている分(②・③)については御免除願いたい。また、用人の崎山兵司については「(前略)右は畢竟(ひっきょう)御用役崎山兵司殿年来之間私欲押領之取計らい仕り、地頭所御殿様始め御奥向ー体申掠め候儀と両村一同推量奉り、然るを其儘差置き候ては第一御地頭所様御為にも相ならず(後略)」との理由で、ぜひ罷免してもらいたいと「明細書」および「年分御暮方御入用凡書」を添えて訴えている。この嘆願書は、前述のように当初六月十三日に領主鉄次郎の大本家にあたる牧野河内守のもとへ出されたが、河内守からは「願いの趣はよく分かったが、この願いはまず本家へ願い出るのが順道というものであろう」との指摘があった。そこで「本家には崎山氏の縁者もたくさんおり、目的を達する前に握り潰されてしまう恐れがあるので、やむなく大本家様へ愁訴に至った」とその間の事情を説明した。すると気持ちはわかったが「ともかく、まず一度筋を通して本家へ訴え、それで駄目なら何とかしてやる」とのことであった。そこで翌二十日に本家の牧野八太夫方へ崎山氏の罷免願いを出したのである。その結果、崎山氏は一身に責任を負わされ、退役憂き目にあっている。
農民たちのこのような努力にもかかわらず問題は一向に解決されず、生活費の全てを知行所村々からの年貢に頼る旗本たちは、手を変え品を変えて出金を強要してきた。嘉永六年(一八五三)二月、荒井村と小泉村(上尾市)両村の名主組頭ら村役人六人が、領主牧野氏の用人に当てた長文の嘆願書(矢部洋蔵家二八六)が遺されているが、これはこの辺の事情をよく物語っている。これを要約すると
  • 崎山兵司が用人のとき、両村からの御用金等が七〇〇両余に達したが一向に返済されず、金策の道も閉ざされてしまった。また、名主平兵衛が他借し上納した分が八四両余に達したが、これもそのままになっている
  • 井上源右衛門が用人になってからも、凶作続きでこの三〇年間に両村で二〇軒余の潰百姓がでるほどの困窮状態ではあるが、殿様役付きの祝儀ということなので御用金五〇両を何とか工面し上納した
  • 神山篤兵衛が用人になってから、御改革ということで、これまでの分については当分の間据置きとし、その上に今後両村から月々六両づゝ前納してほしいと送金額引き上げの強い要請があった。当然応じられるような状態ではないが、牧野家の財政改革に期待し承諾した
  • 嘉永五年(一八五二)大凶作となり牧野氏では生活に支障が生じ、またもやー〇〇両の御用金を命じられ上納した。さらに五〇両不足ということであったが、これは用人が他借し調達した。ところが、その分の利子については至急村々から上納せよとの厳しい催促があった。しかし前述のような状況であり、村としても多額の負債を抱え、もはや金策の道もなく困り果てている
ということで、領主の本家筋にあたる牧野大内蔵に対して一五〇両の拝借を願いでているのである。そして、返済については一〇両ずつ一五年賦を求めている。
この結果がどうなったかについては不明であるが、この嘆願書からもわかるように、たとえ両者の合意のもとに「御仕法」が定められても旗本自身必ずしもその額を守るとは限らず、さらに決められた金額以外に無心してくることも間々あった。そのため計画通りに行かないことが多く、その知行所村々による「地頭賄」は旗本財政の支出を抑制することはできても、窮乏化を打開することはできなかったということができる。
さらに、これらの史料の中で一貫して感じられることは、財政が破綻し知行所村々には頭が上がらないはずの旗本たちが、何ゆえに村々に対し領主として君臨することができ、しかも御仕法等を無視して次々と御用金を課すことができたのかということである。それは旗本が一人の領主としてでなく、幕藩権力の中の一領主として知行所村々に対していたからである。したがって農民たちは、自分たちを支配しているのは幕府を頂点とした全領主権力であることを認識しており、一方知行所の名主たちは、無理を重ねてでも旗本の出金要請に応じ、その代わりに士格・苗字帯刀をはじめとする種々の特権を与えられて、その権威で村の中での自らの地位を強化していったのである。このような両者の関係が、農民たちの犠牲のもとに、旗本の知行所へ依存しようとする体質を温存させたということができる。

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